五燈会元鈔講話

『五燈会元』に就いて


 今年は平成三年(一九九一)、私も八十三歳になった。人間禅教団の師家を 拝命し、北越・北海・札幌の三支部の担当師家となってから、もう三十三年にな る。その間に三支部それぞれで、『碧巖録』を講じ了ること二回、『無門関』を 講じ了ること三回、教団所定の講本『証道歌』『信心銘』なども皆二回ないし三 回講じている。私は前から今生の思い出に、「雪竇の頌」や「圜悟の垂示・下語 」、また「無門の評唱と頌」などを離れて、直接に仏祖の因縁、いわゆる古則公 案に迫って、これを講じてみたいと考えていた。大変な思い上がり、と非難され ようが、黄檗希運禅師のいわゆる「とう(口+童)酒糟の漢」で生涯を終りたく ないとの願いからである。そこで『五燈会元』の中から、提唱するのに適当と思 われる部分を鈔出して『五燈会元鈔』を編み、これから何年にわたるか、八十三 歳を期として講じてみることにした次第である。次にまず、その『五燈会元』に 就いて簡単に解説しておこう。
 禅宗の大いに栄えた中国の北宋の時代から南宋の時代にかけて、約二〇〇年 の間に、禅僧の伝記を中心とした五つの禅宗史の著述が編集されておる。これを 『五燈録』というのである。ちなみに『五燈録』とは、
(一) 景徳傳燈録 三〇巻、北宋景徳元年(一〇〇四)成立。
     撰者 永安道原。元豊三年 (一〇六〇)刊。
(二) 天聖廣燈録  三〇巻、北宋天聖七年(一〇二九)成立。
    撰者 李遵勗 、南宋の紹興十八年(一一四八)刊。
(三) 建中靖国続燈録  三〇巻、
    編者 仏国惟白、北宋の徽宗皇帝の建中靖国元年(一一〇一)刊。
(四) 宗門聯燈会要  三〇巻、南宋淳煕一〇年(一一八三)成立。
    晦翁悟明編。同十六年(一一八九)刊。
(五) 嘉泰普燈録 三〇巻、南宋嘉泰四年(一二〇四)成立。
    編者 雷庵正受 。
 の五つをいうのである。 
ところでこの『五燈録』の記述はずいぶんと重複しており、また、中には冗漫 すぎる記述も無いではない。そこで南宋の大川普済が以上の『五燈録』の内容の 重複を整理し、その肝要な部分を要約して集めたもの、それが『五燈会元』であ る。ちなみにこの大川普済という和尚は、有名な大慧宗杲の孫弟子になる人物で あります。この『五燈会元』は、『五燈録』を一々見ないでも、ほぼそれらの要 点を尽くすことができる大変便利な本で、我が国では室町時代に五山版として刊 行され、現在ではこれを増訂したものが刊行されています。ともあれ、この『五 燈会元』というものは、そういうわけで中国の禅宗史を知り、多くの禅僧の伝記 や行歴を知るのに極めて重宝な書であります。なお、『五燈会元』には教主釈迦 牟尼世尊の伝記及び業績、さらにまた西天二十八祖といわれる迦葉尊者・阿難尊 者以下二十七祖の伝記も載録されているが、その部分は歴史家としての眼から見 ると信用しかねるところもある。また禅の理解を深めるのに必ずしも適切とは言 えない部分もないではない。そこで釈迦牟尼世尊の伝記、西天二十七祖の伝記等 を省略して、インドの二十八祖で中国禅宗の初祖菩提達磨大師のところから、お 主らの修行に役立つであろうところのものを選んで鈔録したのがこの『五燈会元 鈔』である。
 前置きはこの程度にして、今夜は達磨大師の伝記と達磨の禅の真髄を見るべ き一則を講じておくことにする。

[一]菩提達磨と二祖慧可

(一)菩提達磨

(1) 達磨、師の般若多羅尊者に告げて云く、我 今既に法を得たり。当に 何の国に往きてか仏事を作すべきや。願わくは開示を垂れたまえ。尊者云く、汝  法を得たりと雖も、未だ遠く遊ぶべからず。且らく南天に止まりて、吾が滅後 六十七載を待ちて、当に震旦に往きて大法薬を設け、直に上根を接すべし。慎ん で速やかに行くこと勿れ。

 般若多羅尊者というのは不如密多の法を嗣いでインドの二十七祖となられた 方である。この般若多羅尊者が、南天竺(南インド)の香至国に到り、その国王 の王子三人と問答した。誰か一人を自分の弟子に仕立てて法を伝えようというつ もりであった。そうしてその選に入ったのが、一番末の菩提多羅で、これが後の 菩提達磨である。ところで、この般若多羅尊者について思いだすことはないか。 『瓦筌集』二百則中の第百九十九に
  

東インドの国王、第二十七祖の般若多羅尊者を請じて斎す。王問う、「何ぞ看 経せざる?」祖云く、「貧道、入息 陰界に居らず、出息  衆縁 に渉らず、常 に如是の経を転ずること百千万億巻なり」


という公案が採録されておる。たいていならば国王の斉に招かれれば数珠をま さぐりながら、殊勝げにムニャムニャムニャとお経を唱えるのが普通であるが、 この般若多羅尊者は一向にそのお経を読まない。それで国王が「和尚、何故お経 を読まんのじゃ?」と促した。すると尊者、「私は 入息 陰界に居らず、出息  衆縁に渉らず、常に如是の経を百千万億巻転じております。私はいつも念々正 念、と正念を相続しておりますが、これが本当の看経というものでござる」と、 こう答えたという。達磨の師匠の般若多羅尊者とは、そういうお方である。
 「達磨云く、我 今既に法を得たり。当に何の国に往きてか仏事を作すべき や。願わくは開示を垂れたまえ」「私はお陰様で、すでに大法を我がものとし、 法嗣たることを印可されました。この上は、大いに大法を挙揚致し衆生済度のた めに働きたいと思いますが、何処へ行ったらよろしいかお教えを賜りたい」こう 言った。これが弟子たるものの師家に対してあるべき態度で、「もう既に法を得 たからわしの勝手じゃ」などというのではいかんのだ。  こう問われて般若多 羅尊者云く、「汝は確かに我が法を嗣ぎ、大法を得た。しかしながら、まだ遠い 国に行ってはならんぞ。まだその機縁が熟しておらん。だから、しばらく南天竺 すなわち南インドに留まって時期を待て。いつまで待つかといえば、わしが亡く なってから六十七年待て。六十七年たったら震旦、今日の中国に行って大法薬を 設け、直に上根を接得せよ。決して急いで行ってはならんぞ。機縁が熟し時期の 到来するのを待つように」こう言われた。「大法薬を設ける」というのは、もろ もろの施設をととのえて、大法を挙揚することである。
 次に「上根」について一言触れておこう。およそ人間は本体から見れば賢愚 ・美醜を超越して万人みな平等である。しかし実際の形相・働きからみれば、そ の根器に上中下の区別があることは否定しがたい。上根とは叩いて大物になるよ うな、素質のよい人物のことで、そうした上々の根器を持った人物を説得して、 彼に大法を嗣がしめよ。「しかし今すぐ中国に行ってみたところで、時期尚早で 機縁熟しておらんから、すぐ行ってはならん」と、こう言われた。達磨大師はす なおに師のお言葉にしたがい、師匠の滅後六十七年間インドにとどまり、じっく りと徳力を練り、また邪宗の者たちを論破したり、教導したりしていた。
 そして師の指示のままに、尊者が帰寂して六十七年たって、インドを出発し て中国に向かった。但しシルクロ−ドといわれている陸路を通ったのではなく海 路をとり、今日のビルマ・タイ・シンガポ−ル・ベトナムを経て、漸く南シナ、 今日の広東付近に到着した。この間、何年かかったかはっきりせんが、当時のち っぽけな船を乗りつぎ、風を待っての航海であるから二〜三年はかかったであろ う、といわれている。

(2) 達磨、梁 の普通元年庚子九月二十一日、南海に達し、十月一日金陵 に到る。武帝問うて云く、朕即位已来、寺を造り経を写し、僧を度すること、勝 て記すべからず。何の功徳か有る。磨云く、並びに無功徳。又、問う、如何なる か是れ聖諦 第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く 、不識。帝 領悟せず。磨 機の契はざるを知り、是の月十九日、潜かに江北に 回り、十一月二十三日洛陽にIく。魏の孝明帝の正光 元年に当たる。嵩山の少 林寺に寓止し、壁に面して坐し、終日黙然たり。人 之を測ること莫し。之を壁 観婆羅門と謂う。

 達磨が中国に到来した年については、普通元年説と七年説があって、『五燈 会元』は七年を採っておるが、今日では元年説が採られている(西暦五二〇年) 。それは歴史家の間では重要な問題であろうが、宗旨のうえからはさほど問題で はない。ここで問題なのは、中国に渡来した時の達磨大師の年齢である。達磨大 師は上々根器の人物であったとはいえ、師の法を嗣いだのは二〇歳頃であろう。 二〇歳から六十七年たって出発し、海路三年かかったとすると、もう九〇歳には なっておるはず。その老齢をおして危険な海路を経由して漸く中国に着いたわけ で、大法のためとはいえ、まことにご苦労様なこと、有難いことである。
 普通元年の九月二十一日に南海に到着した達磨は、梁の武帝に迎えられて十 月一日に都金陵(今日の南京)に入った。梁の武帝は南朝の梁の第一代の皇帝で 、五〇一年から五四九年まで五〇年近く在位している。武帝は善慧大士あるいは 宝誌を側近に擁し、自ら仏教に傾倒しかつ保護し、同泰寺などの寺を建立し、僧 や尼さんを養成すること一〇万人といわれておる。なお自ら袈袋を着けて『放光 般若経』などを講じておった。当時一般に「仏心天子」、あるいは「皇帝大菩薩 」などと尊称されておった人物でありました。相当仏教学を学んでおったことは 確かであります。その武帝がはるばるとインドから達磨が来られたと聞いて大い に喜び、これを宮殿に迎え、文武百官のいる前で早速に達磨と問答をはじめた。
 
 武帝まず最初、「朕即位已来、寺を造り経を写し、僧を度す。勝て記すべか らず。何の功徳か有る?」と切り出した。『碧巖録』の第一則に採られているあ の因縁である。「わしは皇帝となって以来、仏教に帰依して寺を造ったり、諸々 の経文を写したり、あるいは僧や尼さんを養成したり、一々数えあげきれないほ ど仏教を保護し興隆につとめた。どうじゃ。何の功徳か有る?」武帝、口では「 どれほどの功徳が有りましょうか?」と問うておるが、その肚の中では「それは それは大した功徳がござります。皇帝陛下は必ずや上品上生の浄土に生まれ、御 一族の皆様それぞれに浄土にお生まれなさるでござりましょう」とでも言っても らうつもりであったろう。「大いに功徳がござります」という返答が返ってくる のを予定しての問いである。ところが返って来たのは「並びに功徳なし」「功徳 は全然ござりません」という意味の言葉である。ここで問題は、こう言った達磨 の肚如何ということじゃ。古来、造寺、造仏、写経や僧尼の養成などは、極楽往 生を確かならしめる善根功徳であると、一般に考えられておるし、またそうなは ずである。それなのに「無功徳!」とはどういうことじゃ。これに就いては、色 々な解釈もあるが、儂はこうみておる。どのような善根でも、それに対する酬い を期待して行う善根は、本当の善根功徳ではない。酬いを期待しての善根は、一 種の経済行為にすぎない。しないよりはましではあるが、それは資本投下みたい なものじゃ。結果を期待しての行いは、畢竟するに、本当の善根ではない。まし て況んや「何の功徳かある」というように、自らの善根を数えあげて、自らの善 根を誇り、他に宣伝し、「わしは仏教にこれだけの施しをしておる」などと言う ようでは、もとより真の善根ではない。武帝は、まあ、その程度だった。達磨が それをすばやく看破して、第一義に立ってあえて頂門に下した一針が、この「無 功徳!」の一語なのだ。ここでお世辞を言うようでは達磨ではない。世間にはお 布施欲しさに何かと心にもないおべっかを使っている坊主が多いが、それらは事 業屋ではあっても宗教家ではない。
 
 それでは真の無功徳とはどういうものであろうか。例を親と子にとって考え てみよう。親は子に対して愛情を抱き、その養育にはずいぶんと苦心をする。時 と場合によっては自分の食うものも食わず、着るものも着ないで子供を養育する 。それが親心である。その場合、もし親が子に対して何か酬いを求めることがあ ったら、自分の老後をこの子に看てもらうために今この子を大学に入れておくと いうようなことでは、それは利害打算の経済行為にすぎない。親の愛情が不純だ から、やがて親不孝な子が出て、「せっかくあんなに苦労して育てたのに」と、 嘆かざるを得ないようになるのだ。なんらの酬いを求めることのない、ただそう せずにはおられない愛情の発露、それが本当の親心、まことの愛というものであ る。親心はその点太陽とまさに似ておる。太陽はただ本然の自性のままに燃焼し て光と熱を放っておる。太陽はこの地球上に光と熱とを送っているが、人間をは じめ万物を育ててやろうなどとは意識してはおらず、また、感謝されようなどと も全く考えておらん。有難いと感謝されようが、暑い暑いとうるさがられようが 、太陽はけろりかんとして、依然本然の自性のままに輝いておる。恩恵を施して いるという意識もなければ、自らの功を誇ることもさらさらない。本当の善根さ らには仏の慈悲、禅者の慈悲というものはこうでなければいかん。達磨大師が武 帝の「朕即位已来、寺を造り経を写し僧を度すこと勝て記す可からず。何の功徳 か有る」に対して、「無功徳!」と突き放したのは、こういう肚からである。最 も適切な頂門の一針である。しかし武帝にはそれが分らなかった。期待に反して 肩すかしをくらった武帝は、今度は仏教の教理に関する自らの学識をひけらかそ うとでも考えたか、「如何なるか是れ聖諦第一義」と、仏教学上の大問題を担ぎ 出した。「聖諦第一義」とはどういうことであろうか。それに就いては有名な肇 法師の『肇論 』に
  此の経(大品般若経)は真俗二諦を明らむ。真諦は以て非有を明らかにし 、俗諦は以て非無を明らかにす。而して真俗不二、之を聖諦第一義となす。
とこう出ておる。真諦というのは出世間法のこと、俗諦というのは世間法のこ とである。昔流にいえば真諦は仏法、俗諦は王法と見たらいい。『肇論』に「真 諦は以て非有を明らかにす」とあるのは「色即是空」の「空」を明らかにするこ とで、「俗諦は以て非無を明らかにし」というのが「空即是色」の「色」を明ら かにすることである。空を明らかにするのが真諦、色を明らかにするのが俗諦と 、こう割り切ってみてもいい。いずれにせよこの真諦と俗諦、出世間法と世間法 とは表裏の関係をなすもので、世間法を離れて出世間法なく、出世間法に即しな い世間法はない。仏法王法不二である。武帝はこの煩瑣な教理を担ぎ出して達磨 をテストしようとしたのであるが、達磨はこれに対して何と言ったか。いささか も理屈にわたらず、ズバリ「廓然無聖!」と切って放った。廓然というのは、今 日の空のように、カラリと晴れて雲一つないことである。無聖とは聖なるもの、 特別に殊勝げなもののないことの謂いである。「世界中隅から隅まで探しても、 特に有りがたそうで殊勝げなものは何一つない。聖といえばすべてが聖であり、 真実である」それが「廓然無聖!」の意味である。「聖諦第一義」の真義はくだ いていえば、世俗の営みがそのまま仏作・仏行に通ずるということである。『法 華経』に【一切の治生産業 皆 実相と相違背せず】とあるが、それが「聖諦第 一義」の真義じゃ。わが教団の『瓦筌集』の第八十四に、『非々想天』という
  

一切の治生産業 皆 実相と相違背せず。且らく道え!非々想天、即今幾人有 ってか退位す?

という則があり、この則を透過した者もここにずいぶんおるはずであるが、あ の則をもう一度よく味わっておくがよい。「聖諦第一義」を問うて自分の学識を ひけらかそうとした武帝、ここでもまた面目を失してしまった。
 武帝はそこで「朕に対するものは誰そ」と第三問を放った。「わしの面前に 突っ立っておる色の黒い坊主は一体何者じゃ」「お主、何ものじゃ」こう問われ た。これに対して達磨大師、「はい、西天からやって参りました菩提達磨と申す ものでござります」などとは言わん。いきなり「不識!」とあびせかけた。しか しこの「不識」ばかりは何とも言いようがない。これは公案である。宜しく通身 の白汗を流した上で室内において看るほかはない。しかし、あえて言うならば、 この「不識」は文字通りの知りませんではない。また答えに詰っての知らんでは もちろんない。「朕に対するものは誰そ」に対して、この「不識」いとも力強く 明諦に答えているのだ。そこをみて洪川宗温禅師は【話り尽くす山雲海月の情】 と著語しておられる。達磨大師 五臓六腑を撒けだして示してござるというのだ が、それが拝めますか。いったいどこでそうなんじゃ。また『新編碧巖集講話』 をみればわかるように、先師耕雲庵老漢はここに【この一語、達磨大師、大慈悲 心から自らの五臓六腑を撒けだしてござる。この一語があるがゆえに今日の禅が あるのじゃ】こう言っておられる。これ以上は室内において実参実証のうえ納得 する以外にはない。この則をすでに看た者は、ここに何と著語したか、よく味わ ってみよ。達磨の「不識!」の一語、一五〇〇年後の今日まで凛々と響いておる ではないか。どうじゃ、聴こえるか? また『瓦筌集』の第八十五に、
  

六祖慧能大師、因みに南岳の讓和尚に問う、「恁(いん)もに来るものは、是 れ誰そ?」讓、八年を経て、方に下語して云く、「説似一物即不中 」と

という一則があるが、この「説いて一物に似たりといえども即ちあたらず」の 一句、達磨の「不識!」といささか相通ずるものがある。しかし、やっぱり「不 識!」の二字一句、この方が遥かに格が上だ。耕雲庵老漢の『新編碧巖集講話』 をもう一度、改めてトックリと拝読しておくが良かろう。
 武帝は「何の功徳か有る」と問うて「無功徳!」と突き放され、次に「如何 なるか聖諦第一義」と迫って「廓然無聖!」といなされ、更に「朕に対する者は 誰そ」と問うて「不識!」と切りかえされたが、どの場合も「領悟せず」で何の ことやらわからずじまいであった。これをみて達磨大師「機の契はざるを知る」 で「これはまだだめじゃわい。わしが法を説き鍛えるには時期も早いし、その根 器も契わん、これは叩いて本物になる器ではない」と、こう察知して梁の国を去 ることに決めた。そうして十月十九日夜、小さな舟に乗って潜かに揚子江を渡っ て北方の国、魏に赴いたのであった。無理に留められることを達磨は警戒したの であろう。そうして十一月二十三日洛陽に到着したが、時に「魏の孝明帝の正光 元年」であった。なお「魏の孝明帝の正光元年」は実は梁の武帝の普通元年で七 年ではない。達磨の中国渡来を『会元』は七年としているが、それは誤りで普通 元年でなければならんのだ。テキストを元年にしておいたのはそのためである。
 
 魏に渡った達磨大師は「嵩山の少林寺に寓止」したのであるが、嵩山は洛陽 の近くにあり、五岳の一つに数えられる名山であります。この嵩山は三つの峰か ら成り、その東の方の峰を太室、西の方の峰を少室といい、少林寺はこの少室の 峰の麓にあるのであります。【無角の鉄牛少室に眠る】という七字一句があるが 、ここでの少室は少林寺というのと同じである。達磨はその少林寺で「壁に面し て坐す」で、今、曹洞宗でやっておるように、面壁坐禅をやっておる。臨済宗で は皆さんがやっているように坐っておる。どちらが好いとも悪いともいえんが、 下手に壁に面して坐っておると、幻覚を起して昏睡状態に陥りやすいようだ。達 磨は面壁坐禅をして「終日黙然たり、人 之を測るなし」で、折角インドからや って来て、説法するのでもなければ、お経を読むのでもなく、ただ黙然と坐って おるのが何故か、人々にはそれが分らなかった。そして人々は彼を「壁観婆羅門 」とあだなした。婆羅門というのは、ここではインド僧というくらいの意味じゃ
 今夜はこれで終るが、第一に達磨大師が八〇歳ないし九〇歳近い老齢で、イ ンドからわざわざやってきて、中国に仏心印を伝えたそのご苦労を思い、報恩感 謝の念を新たにすることじゃ。次にまた達磨が梁の武帝にいささかもへつらうこ となく、大慈悲心から「無功徳!」と答え、「廓然無聖!」と言い、「不識!」 と突き放したその肚を、わが肚として納得できるように骨を折れ。達磨のこの肚 がわからんでは禅がわからぬ。達磨の児孫たるものは、須く大いに坐禅すべし!
 今晩はこれまで。

(3) 時に神光なる者あり。昿達の士なり。久しく伊洛に居す。群書を博覧 して、善く玄理を談ず。毎に嘆じて云く、孔老の教 は礼術の風規、荘易の書は 未だ妙理を尽さずと。其の年十二月九日夜、天 大いに雪を雨らす。神光堅く立 ちて動かず、明に到る。積雪 膝を過ぐ。磨 憫 みて問うて云く、汝久しく雪中 に立つ、当に何事をか求むべき。光 悲涙して云く、惟願わくは和尚、慈悲甘露 の法門を開き、広く群品を度したまえ。磨云く、諸仏無上の妙道は、昿劫に精勤 し、行じ難きを能く行じ、忍び難きを能く忍ぶ、豈に小徳小智、軽心慢心を以て 、真乗を冀 わんと欲するは、徒 に労し勤苦するのみと。光 磨の誨励を聞き、 潜かに利刀を取り、自ら左の臂を断ちて、磨の前に置く。磨 是れ法器なること を知り、(乃ち入門を許す、)名を易えて慧可と云う。

 「時に神光なる者あり」という神光とは、二祖慧可大師の出家以前の名前 であります。「神光」とは霊妙な心の働きの謂いで、万人本来具有底の大光明の 事であります。そういう名前を持っておっただけに、彼はまことに聡明鋭利かつ 「昿達の士」であった。「昿達」とは、心が広く豊かで片寄らないという意味で あり、簡単にいえば識見広大なる人物であったと、まあ、これくらいに取ってお いたらよかろう。次に「久しく伊洛に居る」とあるが、この伊洛というのは、都 、洛陽の近くを流れておる伊水と洛水という二つの川のことで、「伊洛に居る」 とは、洛陽に居をかまえておったということである。「博く群書を覧て、よく玄 理を談ず」この当時には、すでに四書五経は成立し、老子・荘子をはじめ諸子百 家の書も沢山出ております。神光はそれら諸々の書を読み、幽玄玄妙な道理に通 じかつ談じておった。しかし、彼は四書五経にも老荘その他の書にも、飽き足り なさを感じ、常に「孔老の教は礼術の風紀に過ぎん」と嘆じておったという。「 孔子や老子の教えは、畢竟するに俗世間の倫理道徳、ないしは低俗な世渡りの術 に過ぎない」というくらいの意味である。また、「荘易の書」というのは、『荘 子』と五経の一つの『易経』をさすのであるが、この『荘子』や『易教』は宇宙 の根本の原理にやや触れてはいるが、しかし、その解き方が浅はかで「未だ妙理 を尽くさず」だというのである。神光は「人生如何に生くべきか!」という問題 の解決を求め、自然と人生を貫く根本の法を体得し、その上にに立って大安心を 得て、ほんとうの人生を味わいつつ生きたいと願い、それに正しく答える教えを 求めておったのである。しかし、当時の儒教や老・荘の教えは、それに答えるに にはその教えが浅はかで、答える術を知らなかった。
そう悩んでいた神光の耳に「嵩山の少林寺に、インドから御座った達磨という 老僧がおられるそうだ」ということが入った。そこで彼に「おそらく、この方な らばきっと、わしの求めるところを与えてくださるであろう」と考えて、嵩山の 少林寺を幾たびか訪れたが、いつ行ってみても達磨はただ面壁坐禅しておられ、 振り向いてもくれない。したがって入門を願い出る機会もない。神光はおそらく 何回かそういう状態で、すごすごと下山しておったに違いない。しかし、彼はな んとしても、「人生如何に生くべきか」の問題を解決をせずにはおられぬという 熱心から、ついに十二月九日の夜、「今度こそは、入門が許可されるまでは絶対 に山を下らぬ」と、決心して嵩山の少林寺を訪れた。折しも、陰暦の十二月九日 「天 大いに雪を雨らす」で大雪で夕方からは風も出てきた。しかし達磨は依然 として面壁坐禅。神光は「堅く立ちて動かず」で、その庭先に佇立して動かぬ。 夜は深々と更け、雪はいよいよ卍巴 と降る。とうとう、夜は白々と明けてしま った。気がついてみると、「明に到り積雪膝を過ぐ」一晩中降り積もった雪が神 光の膝を過ぎておる。雪降りの一夜を庭前に立ちつくした神光も神光であるが、 達磨もまた徹夜で坐禅をしておられたのである。そうして、達磨は明け方になっ てようやく振り向いて、「憫れみて問うて云く、汝久しく雪中に立つ。当に何事 をか求むべき」、「お主は、昨日の夕方から夜通し庭前につっ立ったままのよう であるが、何を求めて、そのように立っておるのか」と、こう声をかけて下さっ た。神光青年「悲涙して曰く」とあるが、この悲涙は悲しみの涙ではなく、感激 の涙に違いない。神光は嬉しさに感激の涙をぬぐって、「惟願わくは和尚、慈悲 甘露の法門を開き、広く群品を度したまえ」「和尚よ、どうぞ一つ大慈大悲をも って、甘露の法門を開いて、広く群品を度して頂きたい」と、こう訴えた。「甘 露の法」とは、ここでは無上の法というくらいの意味であり、「群品」とは衆生 という意味じゃ。これは、神光の偽らざる願いではあったであろうが、しかし、 この「広く群品を度したまえ」には、彼自身の求道の志の切実さが現れておらぬ 。一種の気取りすら見える。「群品を度せ、衆生を度せ」ではなく、「私を救っ て下さい!」というのでなければ、本当の叫び、切実な入門の願いとはいえない 。本当につまっているなら、「群品を度せよ」などと、他人事のように言ってる ひまはないはずじゃ。達磨大師は「こやつ、まだ、ほんとうに、切実になりきっ てはおらぬ。どこか、気取りさえも見えるわい」と、鋭く察知してズバリと言わ れた。「諸仏無上の妙道は、昿劫に精勤し、行じ難きをよく行じ、忍び難きをよ く忍ん」で初めて成就しうるものであると先ずこう言われた。「諸仏無上の妙道 」とは「禅道仏法」のこと、「昿劫」とは無限に長い時間というくらいの意味じ ゃ。あえて、無限といわんでも、二十年三十年と挫けず退転せずに精励し、しか も、その間「行じ難きをよく行じ、忍び難きをよく忍ぶ」のでなければ、無上の 妙道は得られない。「行じ難きをよく行じ、忍び難きをよく忍ぶ」実際われわれ は大勢の道友のいる前で、顔から火が出るほど恥をかかされたり、ピシャリとや られたり、或いは、室外に突き出されたりに耐えて、皆今日あるのじゃ。そうい う手荒なことがよいわけではないが、そうでもしないと、修行者の強情我慢はな おらず、悟りの臭みがとれないものである。我を殺し無尽の煩悩を断ぜんが為に は、「行じ難きをよく行じ、忍び難きをよく忍ぶ」ことが是非必要なんじゃ。

達磨はこれに続いて、更に「豈に小徳小智、軽心慢心を以て、真乗を冀わん とするは、徒に労し勤苦するのみ」にすぎん、とこう言われた。「小徳小智」と いうのは、小ざかしい知慧才覚のこと、「軽心慢心」とは単なる一時の軽率な好 奇心や感激のことで、そんなものに動かされて禅の修行に入ってみたところで、 到底長つづきはせず、「真乗を冀う」ことなど思いもよらない。「真乗」とは『 法華経』に曰う【唯だ一乗の法のみあって、二も無くまた三も無し】という、絶 対無上の法のことである。「〈小徳小智〉〈軽心慢心〉程度で、それを手に入れ ようとしたところで到底駄目だ。長続きせず、ただ骨折り損のくたびれもうけに なってしまうのが落ちじゃ。お主のような〈小徳小智〉〈軽心慢心〉のやからが 、この〈真乗〉を得ようとしたところで駄目じゃ。おやめなされ」と、そう言っ て、またプイっと壁に向かって坐ってしまわれた。この非情な扱い、これがまた 、禅門の名物である。本当に道を求める切実な心が無い者に禅を修行をさせてみ たところで、どうにもならぬ。ただ一度限りのこの人生、それを悔いのないよう に生きたいものじゃ。棺箱に片足つっこんでから「ああ、我、誤てり」と後悔し 、もう一度やり直したいといってみたところで、人生だけはやり直しがきかんの じゃ。「そのやり直しのきかない人生をどう生きることが、本当に生きがいある 生き方と言えるのか」という問題を解決しようという決意、これが本当の求道心 である。「人生如何に生くべきか」という大疑団をいだいて、しかも、「釈迦も 人なり、達磨も人なり、我も人なり、彼らに出来たことが、わしに出来んはずは ない」と、退転しがちな我が心に鞭打ち、大勇猛心を奮い起こして修行するので なければ、禅の修行は成就しない。諸士はもう一度初心を思い起し、修行の原点 に立ち戻って、求道心を燃えたたせよ!

それはそうとして、この達磨の非情な戒め・激励にあって、神光はついにた まらなくなって、「潜かに利刀を取り、自ら左の臂を断ちて、磨の前に置き」、 不惜身命で入門を願う意思を表示した。といって、お主らがこのような真似をし てみたところで、どうなるものでもない。一時の感激で、血書して入門を願い出 たが、結局、長つづきせず途中で退転してしまった某という人物がおる。我々も 知っておる。まして況や、【身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるはこ れ孝の始なり】で、徒らに我が身を毀傷すべきではない。しかし、神光は敢えて 臂を断った。これが有名な「慧可断臂」であるが、諸士はどうぞ、その形を見な いで、心を看てほしい。これはいうまでもなく「私は文字どおり、不惜身命財で 修行に励みます。このとおり命も何も惜しみません」という決意を表したもので ある。と同時に、これにはもう一つの意思がふくまれている。およそ禅の修行に は、古来「大疑団」「大憤志」とともに「大信根」が必要だと言われておる。大 信根とは、自らのつく師家に対する絶対の信じゃ。断臂は神光が達磨大師へ寄せ る絶対の信を表明したものなんだ。諸士の中には「入門願」に「総裁、ならびに 師家に対して信を表します」と書き、誓約しておりながら、ああじゃこうじゃと 屁理屈をつけて去っていく者がある。これほど師家をあざむき、自己に対して不 誠実な行いは無いはずじゃ。ともあれ、達磨大師は、神光のこの不惜身命財の決 意と、自分に対する信頼の表示とをみて、「こやつ、鍛えれば我が法を伝えるに 足る人物になるであろう。法器であるわい」として彼に入門を許し、「名を易え て慧可と云う」で従来の「神光」という名前に変えて「慧可」という法諱を授け た。これで、慧可和尚が出来上がった。

(4) 慧可云く、我が心 未だ寧からず、乞う師、ために安んぜよと。磨云 く、心を将ち来れ、汝がために安んぜんと。可 良久して云く、心を覓むるに了 に不可得なり。磨云く、我 汝がために心を安んじ了れりと。

 この一段は入門を許された慧可と達磨大師との最初の問答である。既に群 書を読んで、深く思索をしておった慧可が、自分の心中の大疑団をそっくり呈し て、「我が心 未だ寧からず、乞う師、ために安んぜよ」と迫ったのである。こ れを聞いて達磨大師、「心が未だ安らかでないから、心を安んじてくれというか 、安心を得させてくれというか、それなら安んじてやるから、その心を持ってこ い」とは、まことに図星を射た適切な指示である。「安心したいというなら、安 心もさせてやろう、だがその心を持ってこい」と指示されて、慧可いかにもその 通りだと気づき、熱心に我が心の在りかを探し、その心をつかんで達磨大師に呈 そうと努力をした。ここのところ、本文は、「心を将ち来れ、汝がために安んぜ んと。可 良久して云く」となっている。「良久」の二字は、やや久しくと読み 「しばらくの間」の意味であるが、ここの「良久」は一、二分の所謂「良久」で はない。これは文章の綾であって、少なくとも数時間、ないしは数日間、或いは 数ヵ月であるかもしれぬ。何故ならば、慧可がいかに俊発だといっても、今の今 まで「心、安からず」と言っておった分際で、「心を覓むるに了に不可得なり」 というこの見解が、そう簡単に出るはずはないからじゃ。少くも数日間の真剣な 努力があったと見るべきである。
 なお「心不可得」という四字一句は『金剛経』に出ている。かつて、『碧巌 録』を講じて、徳山和尚が茶店の婆さんにやりこめられた話をしたが、あの一段 に【金剛経に曰く、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得】とあったこと を思い出すがよい。しかし、慧可がこの『金剛経』の一節を思い出して、それを ただ言葉として持って来たのではない。諸士も、「心を将ち来れ」といわれて、 ただ「心不可得」の言葉をその辺から拾って持ってきてみたところで、屁の役に もたたぬ。この「心を覓むるに了に不可得なり」に徹しようと思うならば、『瓦 筌集』第八十八に採られている【即今、上人の性いづれの処にか在る?】という あの則あたりに参じて、通身の白汗を絞り尽くして体得すべきものだ。『本来の 面目』の則に参じて本具の仏性を悟り、『倩女離魂』の則などで、それをもう一 度改めて確かなものにし、さらに五祖法演禅師の『牛過窓櫺』の則あたりに於い て、【頭角四蹄、総べて過ぎ了わるも、しかも過ぎざる底の尾巴】をつんだはず である。そしてこの「即今上人」の則を透過して、【有りと云えば有りとや人の 思うらん 呼べば答うる山彦の聲】【無しと云えば無しとや人の思うらん 答え 手でも無き山彦の聲】で、本来の面目すら畢竟するに空であり、『坐禅和讃』に いう【自性即ち無性】であることに徹してはじめて、本当の安心が得られるはず じゃ。旧参の者はそういう所を、もう一度よく噛みわけて味っておくように。た だ公案とそれの見解とを暗記したとて何にもなりゃあせん。人間の一切の迷いは 、「我」というものが実存すると考えて、それに執着するところから起る。次に 「我」を殺し尽くし見性しても、こんどは本来の面目という骨っこいものに執着 する。その本来の面目すらも、畢竟するに空である、「自性即ち無性」であるこ とに徹して、はじめて大安心が得られるのじゃ。

(5) 達磨、天竺に帰らんと欲し、門人に命じて云く、時 将に至る、汝等 各々所得を呈せよと。時に道副有り、対えて云く、我が所見の如きんば、文字に 執せず、文字を離せずして道用を為すと。磨云く、汝は吾が皮を得たり。尼 総 持云く、我が今の所解は、慶喜の阿しく仏国を見るが如し、一見して更に再見せ ず。磨云く、汝は吾が肉を得たりと。道育云く、四大もと空、五陰 有に非ず、 而 して我が見処は、一法の得べき無しと。磨云く、汝は吾が骨を得たりと。最 後に慧可礼拝して位 に依って立つ。磨云く、汝は吾が髄を得たり。

達磨大師は慧可という大物の法嗣を釣りあげ、中国への禅の「移植」のめど も立ち、達磨大師は「これで、わしの使命も終った」という感懐をひそかに抱か れたことであろう。それに大師が中国に来られた時すでに九十歳にはなっておっ た筈だから、それから面壁九年とすれば、もう百歳近くになられている筈。それ だけに望郷の念も一段と深まったことであろう。そこからが、この第一段である 。

 「達磨、天竺に帰らんと欲し、門人に命じて云く、時 将に至る、汝等各々 所得を呈せよ」、「わしはもう故郷の天竺(インド)に帰ろうと思う。ついては 、お主たちの境涯を点検し、その悟境に証明を与えておこうと思う。汝等、各々 自らの現在の悟りと境涯とを、わしの面前に呈してみよ」と命ぜられた。その時 、高弟が四人おったが、まず一番若い道副が見解を呈した。この道副という人物 は、後に梁の武帝に乞われて、金陵すなわち今の南京の海禅寺の住持となった和 尚であります。この道副が、「我が所見の如きんば、文字に執せず、文字を離せ ずして道用を成す」と自らの見解を呈した。およそ禅の金看板は、「教外別伝  不立文字」ということである。道副、「私は教外別伝・不立文字の宗旨を把得い たしまして、それを、自受用・他受用の上に使っております」という位の意味じ ゃ。悪くはない。この見解に対して達磨は、「道副よ、汝は吾が皮を得たり」と いう評価を与えた。

 次に総持という名前の尼さんが立ち上がった。鶴見の総持寺、能登の総持寺 があるが、「総持」というのは陀羅尼、真言という意味であるが、ここでは、そ の詮索はいらない。その総持という名前の尼さんが、私の今の見所は「慶喜の阿 しく仏国を見るが如く、一見して更に再見せず」でござりますと呈した。『大品 般若経』の累経品 というところに、この見所の基になった故事が出ている。「 慶喜」というと、徳川第十五代将軍、徳川慶喜の「慶喜」を思い出すが、これは 本来は阿難尊者のことである。ある時、釈尊が神通力をめぐらして、阿難尊者を はじめ十大弟子、その他大勢の菩薩・羅漢・八部衆らに、南方の阿しく仏国に於 いて、阿L仏が多くの大衆に説法してごさる場面を見せた。今のように映画があ ったわけではないが、神通力でそういう事を見せた。ところが、皆がその場面を 見ている間に、釈尊、その神通力を収めてしまわれたので、その場面が消えて見 えなくなった。そこで世尊が阿難に対して、「阿難よ、今、お主らの目に、阿L 仏が阿L仏国に於いて説法をしてござる場面が、あたかも現実のように見えてお った。しかし、今、それが見えなくなった。丁度そのように、この世に於ける一 切の存在、一切の現象は、みな夢幻空華にすぎないのじゃ。お主たちは、この娑 婆世界で、美しいもの、清らかなもの、或いは醜いものなど色々なものを見るで あろうが、それらは畢竟するに、お主らの見た阿L仏国と同様、夢幻空華に等し いものじゃ。だから、それらに執着してはならない」と、諭されたというのであ る。尼総持はこの故事を引いて、「私は、その釈尊の教えの真実味がわかり、物 に対する執着を脱却できました。一見して更に再見せず、という境涯を得ており ます」と、こう言ったのである。人間はとかく美しいものや面白いものを見ると 、また見たいものだと執着し、それからそれへと連想が起ってくるものであるが 、この尼さん、「私はどのような美しいものを見ても〈一見して再見せず〉〈二 念を続がず!〉という境涯を得ました」というのである。これは相当に高い境涯 である。だから達磨は「尼総持よ、汝は吾が肉を得たり」と、証明を与えられた 。この「一見して再見せず」という辺の消息は、『瓦筌集』にも採られている『 婆子焼庵』でも透過すれば少しは分るであろう。

第三番目に道育という人物が登場した。この人物の伝記ははっきりしてない が、その道育は「四大もと空、五陰有に非ず、而して我が見処は、一法の得べき 無し」と、その悟境を呈した。まず言葉の意味から解説しておこう。「四大もと 空」インドでは古来、人間の肉体は地・水・火・風の四つの元素、四大が仮に和 合して出来ておるといわれている。だから「四大」とは肉体のことだと見てよい 。次に「五陰」というのは、『般若心経』にある【五蘊皆空】の「五蘊」と同じ で、色・受・想・行・識の総称である。簡単にいえば、感覚、認識、さらに判断 というような精神の作用のことで、ここでは精神と見てよろしい。そして「肉体 も精神も本来空である」というのが道育の見所なのである。たしかにそうじゃ。 地・水・火・風の四つの元素が円満に和合し安定している状態、これが健康な肉 体である。その和合が破れて不安定になってくるのが四大不安で病気、また四つ の和合が完全に破壊してしまうのが四大分離、これが死である。しかもそれを焼 けば、一握りの灰にすぎず土に戻ってしまう。「四大もと空」である。次に「五 陰有に非ず」有に非ずとは、五陰また空であるの意。「肉体は死んでも霊魂は残 る」などという迷信・盲信がまだはびっこっているようであるが、体と心とは不 二である。肉体を離れて心はなく、心を離れて肉体はない。とするならば、肉体 が滅びれば、心ないし霊魂も滅びるのはあたりまえじゃ。これは、道元禅師が『 正法眼蔵』において、既にはっきり言っておる。それにも拘らず、今もってその 辺の僧侶の中には、死んでも霊魂があるなどと言ってお布施を集めておるものが ある。しかし、それはまあ赦せるとして、赦しがたいのは「死者の霊魂が祟る」 と言って法外の祈祷料を集めている輩じゃ。ともあれ「四大もと空、五陰有に非 ず」とは「外空、内空、内外ともに空」「人空、法また空」であり、しかも、「 一法のさらに得べきなし」ということである。道育の見所は要するに、「私は、 肉体も精神も、さらにまた万物万象一切皆空であるとの悟りを得ました。私は一 切皆空を我が悟境として毎日を過ごしております」と呈した。ここまで行ったら 、それは「心身脱落・脱落心身」という境涯であり、この無一物の境涯の涼しさ 、【物もたぬ袂は軽し夕涼み】といい、また【空門風自ら涼し】という洒々落々 の境涯である。達磨大師はそこを見て「汝は吾が骨を得たり」と証明を与えられ た。

 最後に残った慧可、どういう見解を呈するかと思いきや、何もいわず黙って 恭しく「礼拝して位に依って立っ」ただけ。「位に依る」の「位」とは、師匠に 侍立した場合に弟子の居るべき定位置のことで、師匠の斜め右うしろに当ります 。「位に依って立つ」慧可は、無言で恭しく礼拝して、そして自分の侍立すべき 定位置に立った。これを見て達磨は、「汝は吾が髄を得たり。汝は我が禅の真髄 を得た」と百点満点の印可証明を与えられた。「礼拝し終って位に依って立った 」この見解、それが何故、達磨の禅の真髄を得たことになるのか、お主ら、一つ 、大いに疑い工夫してみるがよい。わずかに一線道を通じておこう。達磨の禅の 肝心要のところは、まさに言語道断、非思量底のものである。それを、如実に具 体的に一言も吐かず示したもの、それが「礼拝して位に依って立つ」である。こ ういう所をこまやかに工夫し味わうのが、旧参底の工夫というものじゃ。

 今日はここまでにしておくが、ついでに、一言だけ触れておこう。ここに於 いて道副は「皮を得たり」。尼総持は「肉を得たり」。道育は「骨を得たり」。 そして慧可は「髄を得たり」。これを皮・肉・骨・髄の伝授というが、その順序 は表面的なものから次第に内面的なものへ、変るものから変わらないものへとな っており、内面的で変わらないものほど価値が高いと評価されている。そして、 これが東洋芸術論の骨子をなしていることをここで指摘しておきたい。東洋芸術 は表面的なものを捨てて内面的なものへ、感覚的なものを捨てて精神的なものへ と発展している。具体的にいうならば、唐代に於いては、焼けた「法隆寺金堂の 壁画」や「薬師寺の吉祥天像」などのような濃厚で細密な彩色画が流行しておっ たのだが、次の宋代に入ると、彩り・光り・陰影は変るものであるから、本質的 なものではないと、これを捨てて水墨画へと変わって行っている。その場合、彩 色画が皮・肉だとするならば、水墨画は骨・髄だといってよろしい。日本の庭園 の発達を見ても面白い。平安時代の庭園は、美しい花の咲く木や草を植え、美し い極楽浄土の景観を表現しようとしたものであったが、室町時代になると「龍安 寺の枯山水」に代表されるような、石と砂とせいぜい苔だけの石庭に変わってい く。皮肉骨髄の思想が、意外なほど東洋芸術の骨格をなしていることが察せられ よう。つい脱線してしまったが、これもお主らの教養を少しでも豊かにしてやり たいからだ。道産子の田舎者だとはいいながら、お主らはあまりにももの知らず だ。在家の居士として、教養がもう少し豊かなことが必要じゃ。若い連中は、猛 烈に、ただ修行に精進するがよいが、旧参底の者はもう少し、自らの教養を深め 人間的なかおりを身につけるようにしなされ。それも纓絡の一つだ。 つい、脱 線をしてしまったわい。
今夜はこれまで。

(6)達磨記べつ(艸+別)の偈
 吾 もと茲土に来り、法を伝えて迷情を救う。一花五葉に開き、結果自然に 成る。

 達磨大師が、故郷のインドに帰ろうとして、四人の弟子に対し、その境涯 をそれぞれに証明し、特に慧可に対して「汝は吾が髄を得たり」と印可証明した ことは、昨晩講じたところであるが、ついで達磨は「吾が伝え来ったこの禅道仏 法は中国の地に於いて大いに花開き実を結ぶであろう」という祝福の意をこめた 予言、いわゆる記別の偈をのこしている。それがこの(6)の「吾 もと茲土に来 り、法を伝えて迷情を救う。一花五葉に開き、結果自然に成る」という五言四句 の偈である。「吾 もと茲土に来る」。この茲土というのは此の土という意味で あり、中国のことを指し、次の「法を伝え迷情を救う」は、禅道仏法とりわけ仏 法の真髄・仏心印を伝えて、迷情を救うというのである。迷情とは迷いの心とい う意味ではあるが、ここでは迷える衆生を救うと取ってよい。転結の二句は「わ しが中国に蒔いた禅道仏法の一粒の種はやがて五葉となり、さらに亭々とした大 樹となって繁茂し、中国のみならず日本をも覆う大蔭涼となるであろう」と、ま あ、これくらいの意味をこめた予言であります。これを「花が葉になるはずはな い」とかなんとか言うものがおるけれども、それは文学を知らない者のたわごと じゃ。

 耕雲庵老漢が中央大学に学生の禅会をつくり、これに五葉会という名をつけ ておられるが、それは言うまでもなくこの句に基づいておる。その五葉会が七〇 年の歴史をたもち今日もまだ続いております。これは次ぎ次ぎと入ってくる学生 が新しいエネルギーを補給して会の運営にあたり、また、OBが熱心にこれを扶 持しているからでもある。この北海道大学に於ける絶学会も、ぜひ、中大の五葉 会のように、立派な花を咲かせてほしいものだとしみじみ願っておる。しかし、 そのためには現在の学生が骨折り、OBが熱心に応援することが必要じゃ。そう さえすれば求めずして「結果自然に成る」で、絶学会だけではなく、この札幌支 部も栄える筈だ。よい種を蒔き、十分に手入れをするならば、見事な果実が求め ずして成る。種も蒔かず、耕しもせず、しかも見事な結果を得ようとしてみたと ころで、遂げられるはずはない。わしがよく【地肥えて茄子大なり】という五字 を揮毫するが、よく味わってほしい。色つやもよく、見事な茄子を得ようという ならば、畠を深く耕し、化学肥料だけでなく有機肥料を施し、更に水をやり虫を 採り、よく手入れすることだ。それだけの努力をしないで、見事な茄子を得よう としたところで、そんな棚から牡丹餅なんということは人生にはありえない。「 結果自然に成る」を、たんに達磨大師の記Mの語とせず、お互いの信条として、 「一花五葉を開かしめ、結果自然にならしめたい」と、こう意気込みを新たにし てもらいたいものである。
 なお、この「五葉」についてはいろいろな解釈があるが、一番分り易く常識 的に行われているのは次のような解釈である。達磨の禅はやがて南宗禅と北宗禅 とに分れ、北宗禅は比較的に早く滅んでしまい、南宗禅が主流となる。その南宗 禅の南嶽懐譲の法系から@仰宗と臨済宗とが分派し、青原行 思の法系から曹洞 宗、雲門宗、法眼宗が分れて、併せて五宗になる。「五葉」はこの「五宗」(い わゆる五家)のことだというのである。その辺のことは、まあ、俗説として聞い ておけばよかろう。

(7) 達磨、魏の荘帝の永安元年戊申十月五日、端居して逝く。其の年十二 月二十八日、熊耳山に葬り、塔を定林寺に起つ。

 この一節は達磨の帰寂を述べたものである。「魏の荘帝の永安元年戊申」 というのは西紀五二八年に当る。大師の年齢は百歳近い計算になる。「十月五日 」は勿論陰暦ではあるが、ちょうど一昨日、今回の摂心の第一日が達磨忌に相当 していたわけで、教団として達磨忌を催すのも十分に意味のあることである。「 端居して逝く」の端居は端然と坐禅をして帰寂されたということである。そして その遺骸を、「其の年の十二月二十八日、熊耳山に葬った」。熊耳山というのは 河南省の陝州 の東にある小高い山であるが、そこに葬り、その「塔」すなわち 墓を定林寺に建てた。

(二) 二祖 大祖慧可

(1) 二祖慧可、布教伝法すること三十四歳、遂に光を韜 し跡を混じ、儀 相を変易し、或いは諸酒肆に入り、或いは屠門を過ぎり、或いは街談を習い、或 いは厮役に随う。人 之に問うて云く、師は是れ道人なり、何が故ぞ是くの如く なる。祖云く、我 自ら調心す、何ぞ汝が事に関せんや。

 ここからは嗣法後の二祖の行状であり、「二祖慧可、布教伝法すること三 十四歳」とある。二祖は達磨の法を普及せんが為に三十四年間、ひたすら布教伝 法につとめた。
 ところがその後、「遂に光を韜し跡を混じ、儀相を変易し、或いは諸酒肆に 入り、或いは屠門を過ぎり、或いは街談を習い、或いは厮役に随う」という有様 であった。「光を韜し跡を混す」とは要するに、自らの才幹や徳を包み隠して行 方をくらますことじゃ。才幹がピカピカと表面反射している間はまだ本物ではな い。いぶし銀の様に光を包むこと、それが大事なことで、跡をくらましてしばら くの間、行方不明になっていた古人の例は少くない。『大梅梅子』という公案を のこした大梅法常 和尚は、馬祖道一和尚のもとで修行し、馬祖の「即心即仏! 」の一語に触れて大悟したあと行方不明になっておったが、実は大梅山中にかく れて四〇年間聖胎長養 しておったのである。これは光を韜して跡を混じた代表 的な例と言ってよいであろう。
 次に「儀相を変易する」とあるが、「変易」をへんいと読んではいけない。 これはへんえきと読み変化するの意であり、儀相とは威儀・相好という意味であ る。簡単にいえば、立派な僧侶でありながら、僧侶らしくない姿、恐らく俗人の 姿に変装したのであろう。
 そうして姿を変えて「或は諸酒肆に入る」。「酒肆」とはいわゆる酒店のこ とではなくて、今日の料理屋、或いはバー、キャバレーのこと。札幌でいうなら ば薄野辺に出入りしたことである。だいたい僧侶は酒をのむことは許されず、『 O酒生罪戒』といって飲酒は破戒の行動とされておる。二祖はそのことは百も承 知の上で、姿を変えてそういう飲屋に出入りしたのである。
 「或いは屠門を過ぎる」。ここの「過」は過ぎるでなく「過ぎる・訪れる」 という意味にとっておくべきだろう。屠門というのは牛・馬・羊などを屠殺する 場所である。古来、中国においては屠殺場を不浄なる所と考え、仏教では殺生す る場所として、普通の人の出入りすべき所ではないと考えておった。そこに二祖 は出入りしたのである。
 「或いは街談を習う」。街談とは巷説街談・世間の噂話のことである。しか しここでは、民衆の間の俗語とそれによる低俗な会話をさすとみておいたらいい だろう。
 次に「或いは厮役に随う」とある。厮役というのは他人の家に入って下男・ 下女となって奉公することじゃ。後に妙心寺の開山になられた関山国師が、美濃 の伊深の山中に跡をくらまして、土地の農家の牛飼いの童 となっておったこと は有名であるが、それがここにいう「厮役に随う」である。
 「二祖慧可、布教伝法に従事すること三十四歳、遂に光を韜し跡を混じ、儀 相を変易し、或いは諸酒肆に入り、或いは屠門を過ぎり、或いは街談を習い、或 いは厮役に随う」とは、こういうことである。これを不審に思ったある人が、「 師は是れ道人なり、何が故ぞ是くの如くなる?」、「あなたは立派な宗教家であ るのに、なぜ変装をし、戒律を破って、こういうような破戒の所行をあえてなさ るんですか。寺の住持になっておられればいいものを、なぜ下男奉公なんかなさ るんですか」と、こう問うた。ところが、これに対して二祖、「我 自ら調心す 。何ぞ汝が事に関せんや」、「お前の知ったこっちゃあない!」と突き放された 。

 「我 自ら調心す」というが、この調心とはどういうことであろうか?「調 心」とは心を調御するということで、簡単にいえば正念相続を試みることである 。人間の心は環境に影響されて様々に変わるものであるが、しかしそれでは本当 ではない。どのような環境に入っても、それによって誘惑されたり、汚染される ことなく、あたかも火中の蓮花のように、いよいよ美しさを増すのでなければな らない。どこでも、いつでも正念相続ができるように自己を鍛練すること、それ を調心というのである。お主ら、道場に居る間は、どうやらある程度正念が相続 し、煩悩を起こさず、せめて不浄なことを考えておらんかも知れん。しかし、い ったん道場を出ると途端に俗臭に染まり、ただの俗人にもどってしまうようでは 、禅者として恥ずかしいといわねばなるまい。とにかく、【色境に入って色惑を 蒙らず 声境に入って声惑を蒙らず】こうでなけりゃいかん。二祖大師のこの「 調心」、一つには以上のような意味であるが、もう一つ、迷える衆生のウヨウヨ している世間の実相を知る、というねらいも有ったのである。だいたい大乗の菩 薩の誓願は、いうまでもなく自利利他円満にある。自分が悟りを開き幸福を得た ら、それを周辺の人々にお裾分けをする、利他行に打って出ること、これが大乗 の菩薩の使命である。ところが、その迷える人々がどのような生活をし、どのよ うに考えておるのか、その辺のことが分らなければ、適切な衆生済度はできはせ ん。医者が患者の病気を直す為にまずその病状を精密に診断をするように、菩薩 が衆生を済度しようというならば、まず衆生の世界の実情と、衆生の物の見方や 考え方などをよくつかんでおく必要がある。迷える衆生の生態やその心情と、衆 生の作っている社会の実情とをよく知っておくこと、いわば世態・人情をこまや かに観察しておくことが、衆生済度の準備として大事じゃ。この二祖の調心には 、そのねらいがあったのである。そして二祖が酒肆に入り、屠門を訪れ、厮役に 随うたというのは、文珠菩薩が一夏九十日の最初の三十日を富豪の邸宅で多くの 女にかしずかれ、デラックスな饗応を受けて過し、つぎの三十日を魔王の宮殿で 怪しげな接待を受けて過し、最後の三十日を酒肆淫房で過したが、あたかも火中 の蓮花のように少しも穢されることはなかったという。二祖の行状はこの『文珠  三処に夏を度る』という公案とよく似ておる。よく味わってみるがよい。但し 未熟なお主らがこれを下手に真似しようなら、ミイラ取りがミイラになるのは必 定である。呉々も真似などせんように。

(2) 二祖、かん(竹+完)城県匡救寺 三門下に於いて、無上の道を談ず 。聴者林会す。時に辯和法師なる者有り、寺中に於いて涅槃経を講ず。学徒 師 の説法を聞き、稍々 として引き去る。辯和その憤りに勝えず、謗りを邑宰てき (羽+隹)仲侃 に興す。Q その邪説に惑い、祖に加うるに非法を以てす。祖  怡然として委順す。法を識る者は之を償債 と謂う。時に年 一百七歳 、隋の 文帝の開皇十三年三月十六日なり。

 暫く光を韜まし俗世間にあたかも俗人のように過していた二祖は、やがて 仏祖としてかん城県の匡救寺の三門下に再び姿をあらわし、そこで「無上の道を 談じ」大法を挙揚した。かん城県というのは、調べてみると説明がややこしいか ら、まあ南方のある町だと、こう見ておけばいい。但し中国の県は日本の県のよ うな大きいものではなく、郡や町とみておけばよい。そのかん城県の匡救寺の山 門の下で、二祖が無上の道すなわち達磨伝来の妙道を説法された。二祖は寺を持 っていなかったから、匡救寺の門前で大法を挙揚したのであるが、すると「聴者 林会す」で、説法を聴聞する者が林のように大勢集って来た。ところが、「時に 辯和法師なる者有り、寺中に於いて涅槃経を講」じておったのである。そしてそ の辯和法師の『涅槃経』の講席に列しておった坊さんや在家の者たちが、「山門 の下で坊さんが禅の話をしておる。ちょっと聴いてみようか」と言って集まって みると、その説法がまことに素晴らしい。辯和法師の『涅槃経』の講義など問題 にならんほど素晴らしい講義なので、「学徒 師の説法を聞いて、稍々として引 き去る」という有様になった。「これは素晴らしい。辯和法師の講釈よりは、こ ちらの方が魅力があるわい」というので、「稍々として引き去る」で、だんだん 辯和法師の講席がさびれてきてしまった。そこで辯和法師「なんだ、わしの説法 を邪魔する奴がおるとは。しかも、わしの弟子をみんな引っ張ってしまって」と 「その憤りに勝えず」、邑宰のてき仲侃なる人物に讒言をした。邑宰というのは 、そのかん城県匡救寺のある町の長だ。すると邑宰のてき仲侃、法師の讒言に惑 わされて、「祖に加うるに非法を以てす」で、二祖に死刑を宣告した。これに対 して「祖 怡然として委順す」。怡然というのは、楽しげにということ。委順と いうのは、人のなすがままに任せそれに従うことで、二祖は少しもさわがず、む しろ楽しげに死刑を執行された。それについて、次に「法を識る者は之を償債と 謂う。時に年 一百七歳」とある。そしてこれを時の年号にあてはめると「隋の 文帝の開皇十三年三月十六日」に当る。文帝とは大運河を開いたことで知られる 隋の煬帝の父で、開皇十三年は西暦五九三年で、日本では聖徳太子が推古天皇の 摂政に就任した年にあたる。
 なおここに二祖の非業の死を「法を識る者は、之を償債と謂う」とあること に、諸士の注意を喚起しておきたい。ちなみに『瓦筌集』の第百二十九に『皓月 償債』という公案があり、それに【只、獅子尊者・二祖大師の如きんば、何とし てか債を償うことを得去るや?】という一文があるが、これがこの一段の「法を 識る者は之を償債と謂う」と関係があること位は覚えておく方がよいからである 。ついでにいうと、獅子尊者はインド禅宗の第二十四祖で、彼も亦 非業の死を 遂げているのじゃ。

 以上、達磨大師と二祖慧可大師の努力によって、禅宗が中国に根をおろす に至った経過が一層明らかになったと思う。およそインドの禅は、インド人の冥 想的、思弁的な性格を反映して、そうした性格をもつものであった。ところが漢 民族の性格は、彼らの生んだ儒教が実践道徳であることで察せられるように極め て現実的・実践的であり、達磨の禅はこれと結びついて、次第に具体的で実践的 性格を強めるようになって行くのであるが、それは『五燈会元』を講じてゆくに つれて、自から明らかになるであろう。
きりがよいので今晩はこれまでにしておく。ハイ。


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