五燈会元鈔講話

(一)南泉と趙州


(1) 童稚にして曹州の扈通院にて、師に従いて披剃するも、未だ戒を納め ず。便 ち池陽に抵り南泉に参じ、泉の偃息に値う。泉問うて云く、近離何れの 処ぞ?趙州云く、瑞像。泉云く、還って瑞像を見るや?趙州云く、瑞像を見ず、 祗だ臥如来を見る。泉 便ち起坐して問う、汝は是れ有主の沙弥か? 無主の沙 弥か?趙州云く、有主の沙弥。泉云く、那箇か是れ汝の主?趙州 近前して身を 躬 して云く、仲冬厳寒、伏して惟 るに和尚尊候万福と。泉 之を器とし、其の 入室を許す。

今日から、口唇皮子上に光を放つと称された独特の宗風で、中国禅宗史上に重 要な位置を占める趙州従ねん和尚の伝記とその因縁とを、何回かにわたって講じ て行こうと思う。
 趙州和尚は、古来、「80歳まで諸方を行脚し、それから120歳まで趙州 (河北州)の観音院で大法を挙揚した」といわれております。この伝承がどこま で真実か、一脈の疑問が無いわけではありませんが、ともかく健康で長寿を保た れたことだけは確かでしょう。なお、彼の活躍したのは晩唐の時期で、その帰寂 した西暦897年は、日本の寛平9年、菅原道真とゆかりの深い醍醐天皇の即位 された年です。彼の生存したのがいつ頃か、これでほぼ見当がつくでしょう。

 さて彼が南泉普願に相見し、入門を許された因縁ですが、それについては講 本に先ず、「童稚にして曹州の扈通院にて、師に従いて披剃するも、未だ戒を納 めず」とある。彼は幼い時分に生まれ故郷に近い、今日の山東州曹州の扈通院と いう寺で、その寺の和尚を戒師として剃髪しました。しかし正式の僧となるため に必要な三聚浄戒はまだ受けず、従って単なる沙弥小僧として過していたと推定 されます。この沙弥小僧生活が何年続いたかは分りませんが、もともと怜利俊発 な彼が田舎町の寺で納まるはずはなく、今日の安徽省の池陽に南泉普願という偉 い和尚が居られると聞いて、はるばると長途の旅をして池陽を訪れ、南泉和尚に 相見しました。「便ち池陽に抵り、南泉に参じ、泉の偃息に値う。泉問うて云く 、近離何れの処ぞ?」と早速、型通りのテストが始まりました。従ねん(言+念 )沙弥、相見を許され和尚の方丈に通ってみると、和尚はたまたま「偃息」、横 になって休息しておられ、そのままの姿勢で「お主、どこからやって来たか」と 問われた。これに対して普通ならば「はい、曹州の扈通院から参りました」と答 えるべきところ、この従ねんそうは言わず「瑞像から参りました」と答えた。実 はこの「瑞像」とは、今、南泉和尚の住持してござる寺、瑞像院のことなのじゃ 。そして此の瑞像院にはその名の通り、瑞像、大きな仏像でも祀ってあったので あろうか、南泉和尚、この答えに接するや、「還って瑞像を見るや」と更に問わ れました。ところで、これに対する従ねん沙弥の答えが変っている。「瑞像を見 ず、祗だ臥如来を見る」「瑞像はまだ拝んでおりませんが、私は今、目の前に、 寝ころんだ如来様を拝しております」というのである。これはどうして、なかな か鋭くも図星をついた答えである。

 この返答を聞いて、南泉和尚、「こやつ、沙弥小僧のくせに面白いことをい うやつじゃ」と思われたのでありましょう、今まで寝たままであったのを起き直 って、「汝は是れ有主の沙弥か?無主の沙弥か?」と問われた。「有主の沙弥」 というのは、すでに心にきめた師匠の有る沙弥、「無主の沙弥」はまだ師匠をき めていない沙弥のことである。従って和尚のこの問いは、「お主には心にこうと 定めた師匠があるのかどうか」という意味じゃが、これに対して従K「有主の沙 弥」、「はい、私にはもう心に定めた師匠がございます」とサラリと答えた。そ こで「泉云く、那箇か是れ汝の主?」「お主が心に定めている師匠とはどなたじ ゃ」と、少々せきこんで問われた。これに対し従K沙弥、何と答えるかと思いき や、 近前して身を躬して云く、仲冬厳寒、伏して惟みるに和尚尊候万福。スス ーッと和尚の前に進み出て、恭しく礼拝して、折しも「仲冬」陰暦十月で寒さき びしい季節であったのにちなみ、「大変に寒さきびしい折でありますのに、大和 尚におかせられましてはお変りもなく、ご法体愈々御清健なご様子を拝し、大慶 至極に存じ奉ります」と挨拶した。これは一般に弟子が師匠に久濶を敍する場合 の常套的な挨拶である。従ねんはこの時はまだ入門を許可されたわけでもないの に、「私の師匠は和尚、あなた様です」と、もう定めてかかっている挨拶であり ます。先刻からの問答で、南泉和尚「こやつ、なかなか俊発で禅機に富んだ小僧 じゃわい。これはよく鍛えれば大物になる小僧だ」とこう見て、「泉、之を器と して、其の入室を許」したのであります。【栴檀は双葉より香し】という語があ りますが、趙州、少年時代からすでに【口唇皮子上に光を放つ】と称された後年 の鋭気が見えております。
 しかし、いかに趙州と雖も、修行せずして当初から出来上っておったわけで はない。若い時分には、お互い同様、生意気で理屈っぽいところがあった。それ を示すのが次の(2)であります。

(2)趙州 南泉に問う、如何なるか 是れ道? 泉云く、平常心 是れ道。 州云く、還って趣向すべきや否や? 泉云く、向わんと擬すれば即ち背く。(下 略)

この「平常心是れ道」の則は『無門関』の第十九則に採られていて既に三回は 講じており、先きに「南泉普願の章」でも説いているから、省略してよいのであ るが、道とはどのようなものかを知り、かつ事に処するに当っての心の持ち方を 会得するのに参考になるから、法話めくがもう一度簡単に触れておくことにしま しょう。
 さて、ここに登場する趙州は南泉に入門して間もない頃の趙州、若い趙州で あります。その趙州が「如何なるか是れ道」と問うたのに対し、南泉が自らの高 い境涯をゴロゴロと吐き出して示されたのが、この「平常心是れ道」の金言じゃ 。その意味は
  何ともない心、ああのこうのと理屈道理にわたらないサラリとした心から 、スラリと行動すれば、自ずから天地の大道に合するぞ。道とはそうしたもので ある。
ということであります。ところが、まだ未熟だった彼は「還って趣向すべきや 否や」「その道を得るには、それにどう立ち向ったらよろしいでしょうか」と尋 ねた。一応もっともな質問のようであるが、これでは道と道を求める自己とが既 に対立しております。相対的な態度で、絶対の道が得られる筈はありません。と いって、南泉はそんな理屈は少しも言わず、「向かわんと擬すれば即ち背く」「 その道を得ようと身構えれば、却って道から遠ざかるぞ。身構えるな」と示され た。有難くも親切なお示しである。

 実は先きほどテレビで、東京九段の武道館で行われた全国の剣道大会の模様 を見ていたが、昨年まで二度優勝した何某という剣士が、予想に反して第三回戦 で敗れてしまった。そしてテレビのインタビューに応じ、「二回戦までは私は何 も考えずに戦っておりました。ところが案外調子がよいので、これは連覇できそ うだ、三連覇してやろうという心がおこりました。そうしたら途端に動きがギコ チなくなってしまい、この有様です」と述懐しておりました。無心にやっておれ ば勝てたのに、連覇してやろうという雑念、勝とうという助平根性が出た途端に 正念が断ち切れ、平常心が失われてしまったのであります。私は剣道のことは一 向に分りませんが、万事同じだと思います。「向わんと擬し」、勝とうと身構え ると、自然に肉体的に肩に力が入り、肩に力が入ると足腰の力が留守になり、心 の平静さが失われることは、お互い自らの体験を反省してみると肯けましょう。 入学試験だとか、会社の面接試験だとか、或いは晴れの舞台などに出て「あがる 」のは、つまりは身構えすぎて此の平常心を失なうからなのです。大事に直面し てあがらないためにはどうしたらよいか、日頃から努力して実力を養い、自らの 力に自信を持っていることが何よりですが、もっと大切なことは、日頃から正念 相続に骨折り、事に当って平常心でおられるよう心を鍛えておくことです。まあ 、ともあれ、「平常心是れ道」をよく味わい、それを日々の実践の上に生かすよ うに努めることです。そこにこそ活きた禅があるのですぞ。

 「趙州と南泉」といえば、有名な『南泉斬猫』の則の後段に出てくる趙州、 即ち

 南泉 復た前話を挙して趙州に問う。州便ち草鞋を脱し、頭上に戴いて出づ 。泉云く、汝もし在りしかば、猫児を救い得てんに。
に出てくる趙州に触れるべきでありますが、それは『碧巌録』の第六十四則、 『無門関』の第十四則にあり、すでに繰り返し説いているので、今はこれで打ち きっておきましょう。但し、ここに登場する趙州は、修行はもう一通り終り、い わゆる聖胎 長養 の段階に在った頃の趙州であることだけ、念のために言い添え ておきます。

(二)趙州録

 趙州和尚はその長い生涯にわたって、口唇皮子上に光を放つといわれたその 力をもって、当機即妙に禅の宗旨を説き、『趙州録』をのこしておられます。そ の『趙州録』の中から面白いと思うもの約三〇則を選んでこれを講じておこうと 思います。単なる肉の耳でなく心の耳、肚でよーく聴聞するように。

(1) 僧 趙州に問う、狗子に還って仏性 有りや、也た無しや? 州云く、 無

 これは『趙州無字』の公案と呼ばれ、彼の数有る公案の中でも最も有名な公 案であり、『無門関』の著者無門慧開や白隠和尚をはじめ、古来、幾多の英傑が 皆血の涙をしぼった公案である。そしてこの則は『無門関』の第一則に採られ、 我が教団でも見性をはかる公案として重視されている。既にしばしば講じた則で はあり、何よりも公案であるから再説はやめようとも思ったが、趙州和尚の代表 的な公案であるから、敢えて講ずることにしました。 

 或る時、一人の坊さんが「門前のあの痩せ犬にも仏性がございますか」「狗 子に還って仏性有りや、也た無しや」と問うた。この坊さん「一切の衆生悉く皆 仏性有り」だから、当然「有り」という答えが返ってくるものと予期して問うた のだ。ところが、豈にはからんや、趙州から「無!」と返って来たものだから、 鳩が豆鉄砲をくらったようにビックリ仰天してしまった。「一切衆生悉有仏性」 を百も承知の趙州和尚が、僧のこの問いに対して「無!」と応えた肚はどこにあ るのか、その肚をわが物としてこいというのが、この公案の眼目である。
 趙州和尚、単に僧の一枚悟りや文字面の理解を打破してやるために、「無い !」と逆説法をしたわけではない。無門慧開がこの公案を先きにも申したように 『無門関』の冒頭に掲げ、そこで「有無の会をなすこと勿かれ」と注意している ように、この「無」は「有」に対する無ではない。別な僧が同じく「狗子に還っ て仏性有りや、也た無しや」と問うたところ、この時趙州が「有!」と答えてご ざるのは、その何よりの証拠じゃ。趙州和尚ともあろう方が二枚舌を使われる筈 はない。としたら和尚のこの「無!」はいったいどういう肚なのであろうか。無 門が「虚無の会をなすこと勿れ」とも注意しているように、この「無」は老荘や 道教ないしニヒリズムの徒の説くような虚無の無、空々寂々何も無いという意味 の無ではない。それは有だの無だのと未だ分れない以前の無、ないしは有無の相 対を超越した無、絶対無だといえば、そういえないこともないが、そんな哲学的 な概念を弄したところで何の役にも立たない。そんな気のきいた概念を持って行 ったとて、趙州無字の関所は通れない。では、どう工夫したらよいか。
 雲仙の普賢岳が噴火をくりかえし、殊に最近フィリピンの何とかいう山が天 地を揺るがして鳴動し、火山灰を猛然と吹きあげて大噴火しているが、これはい わば宇宙の大生命が爆発しているのである。お主らの肉体にもその宇宙の大生命 が宿りひそんでいるのだが、その大生命が、地下のマグマが盛り上がるように盛 り上がり、鳴動しゴウ然と爆発したもの、それが趙州の「無!」なのじゃ。この 座には『孟子浩然の気』の公案を透過したものが少なくない筈だが、その諸士に 敢えて問う。『趙州無字』と『浩然の気』と、是れ同か是れ別か?  ともあれ 、お主らのその肉体に宿りひそみながらも眠っている宇宙の大生命、ないしは衰 弱している宇宙の大生命を、坐禅三昧の行によって眠からさまし、活性化させる ことじゃ。分ったか!(百雷一時に落ちるように。一同愕然)チーン。

(2) 僧 趙州に問う、如何なるか是れ祖師西来の意? 州云く、庭前の柏 樹子。


この則も亦、趙州和尚の公案として有名なもので、古来、見性をはかる公案の 一つとして重視されているものです。この座の諸士の中にも、この公案で油をし ぼられたものが多い筈です。その真味のほどは実参実証の上で味わうほかないの ですが、一応ザーッと講じておきましょう。
およそ人間をはじめ動物も植物も、さては石や水などの無生物もみな、宇宙の 大生命、仏教のいわゆる如の発露したものであるというのが、大乗仏教の世界観 であります。そしてその宇宙の大生命の人間に宿ったものを仏性 といい、人間 以外の万物に宿ったものを法性 と呼んでおります。仏性といい法性といい、名 前はちがっておるが、それは宇宙の大生命という同じ地下茎から咲き出た花同士 のようなもので、根本は同じです。ですから仏性がわかれば法性がわかり、法性 を悟れば仏性も悟れるわけです。
六祖の『本来の面目』の公案や、先きに講じた『趙州無字』の公案は、仏性を 手がかりに見性をはかる公案で、今夜のこの『柏樹子の話』の公案は、法性の面 から見性をはかる公案なのであります。前置はこの程度にして、さて本則に入り ましょう。

或る僧が趙州和尚に向って「如何なるか是れ祖師西来の意」と問いを発した。 「祖師西来意」とは、前にも度々申した筈だが、「初祖達磨大師が西の方インド から遙々と中国にやって来られた主旨」という程の意味で、要するに「禅の玄旨 如何」ということです。こう問われて趙州和尚、いとも無造作に「庭前の柏樹子 」と答えられたのですが、これはいったいどういうことか、それを工夫して来い というのがこの公案の眼目です。先ず、ここにいう「柏樹子」の語意から説明し ておきましょう。「柏樹子」の子は扇子・枕子の子と同じもので格別の意味はな く、柏樹というも同じである。ところでこの柏樹は、柏餅の葉を採るあの落葉樹 の柏 のことではなく、松・杉・檜葉などと同類の常緑針葉樹の槙柏のことです 。この槙柏は北シナの気候風土に合っていると見えて、北京では大木となって育 っており、恐らく趙州の観音院にも亭々とそびえておったのでしょう。余談にな るが、日本では京都の大徳寺の山門と仏殿との間、また鎌倉の建長寺の山門を入 ったところに、槙柏が緑濃く繁っておるから、見ておきなさい。
さて「禅の玄旨は如何」との問いに対して「庭さきの槙柏」とは、木に竹つい だような返答と見えましょうが、これは立派に答えているのです。ただ趙州和尚 の場合、眼前に槙柏の木があったから槙柏といっただけで、梅の木があれば「庭 前の梅樹子」と答えたでしょう。だが、こう答えた肚はどこにあるのだろうか。 眉鬚堕落を恐れず敢えて言えば、

  看よ、庭前の槙柏を! お主がこの槙柏において法性を拝めたら、祖師西 来 の意が納得 できるあろう。この柏樹子、祖師西来の意を漏らしているが、 それをしてとれ。
というようなことになろうか。しかも、西来意を漏らしているのは、柏樹子だ けではないことは、「梅花 漏泄す西来の意」とか「百花頭上 祖師意」という禅 語でも知られよう。ともあれ、この公案を本当によく透過すれば、釈尊が開悟の 暁に【也太奇 也太奇 山川草木悉皆成仏】と歎ぜられた肚もわかり、大乗禅の世 界観ないし自然観もわがものとなるであろう。

(3) 僧 趙州に問う、十二時中 如何んが用心せん? 州云く、汝は十二時 に使わ    れ、老僧は十二時を使い得たり。汝 那箇の時をか問う?

この則はまことに含蓄の深い一則、大禅者の本当の意味での自主的な生き方を 知る上によい手がかりとなる一則である。先ず文字の意味から解説しておこう。 ここに「十二時」とあるが、昔は中国でも日本でも一日二十四時間を子・丑・寅 ・卯というあの十二支に配当して考えていた。一刻は今日の二時間にあたること になる。といって、ここにいう「十二時」はそういう時刻のことではなく、時間 のことである。したがってこの僧の「十二時中 如何んが用心せん」という問い は、「時間は念々刻々容赦なく過ぎて行きますが、この一日二十四時間をどうい う心構えで過したらよいのでしょうか」という位のことである。それに対する趙 州のお示し、「汝は十二時に使われ、老僧は十二時を使い得たり」とは、何とも 恐れ入るほかはない。「お主をはじめ世の人びとの多くは、時間に使われて過し ているが、儂はあべこべに自由に時間を使っている」というのである。
釈尊は「我れ法王となって、法に於いて自在なり」と申しておられる。ここで 「法王」とはローマ法王の法王の意ではなく、法即ち物、万物ないし万縁万境の 主人公となって、それらを自由に使いこなしているという意味であるが、趙州の 「老僧は十二時を使う」は、それと同じことである。趙州の「十二時」を単に時 間だけとせず、万物の意味にとって解釈して御覧なされ。

  お主らは金を使うといい、酒を飲むというが、本当に自分が主人公となっ て 金を使い、酒を飲んでおるか。あべこべに金に使われ、酒に飲まれておらぬ か。  お主らは五欲煩悩の奴隷となり、それに引きずりひん廻されて六道を輪 廻し ておるが、儂は五欲煩悩をわが手足のように使いこなして、六道に遊戯し て いる。


ということになる。要するに「十二時を使って生きる」とは、万縁万境に対し て主体性を確立して、本当に自主的に生きることなのじゃ。儲かったといって金 に喜ばされ、損したといって金に泣かされるのではなく、喜ぶ時には主体的に喜 び、泣く時には主体的に心から泣くと、こう生きてこそ、この人生を悔いなく主 体的に生きるというものである。「他は十二時に使われ、儂は十二時を使う」こ の語を座右の銘として、毎日を力いっぱい生きようじゃないか。せめて、酒は飲 んでも酒に飲まれないように、金は使っても金に使われないように努めなされ。
なお、「汝 那箇の時をか問う」は、「お主は使われる時を問うのか、使う時 を問うのか、どちらじゃ」という位のことじゃが、これは無くともよい。

(4) 趙州 上堂して云く、此の事は明珠の掌に在るが如し。胡 来れば胡 現じ、漢 来れば漢現ず。

「上堂」とは寺の住持が法堂に上って説法することで、陞座ともいう。多くの 場合、毎月の一日と十五日が定例であるが、端午・重陽などの節句、或いは釈迦 の降誕や涅槃の日などにも行われた。趙州が上堂して大衆に向って、「此の事は 明珠の掌に在るが如し。胡 来れば胡現じ、漢 来れば漢現ず」といわれた。問題 は「此の事」とは何をさすのかということである。お主らは下読みの時、これを どう工夫しておいたか。総じてお主らは下読みの時間が足りない。講座の始まる 三十分やそこら文字面を眺めたところで何になる。下読みとはそんなことではな い。儂は東京で下調べをやり、北越・北海両支部で講ずるに当って十分に再吟味 を行なって講座台上に上り、そして札幌支部でまた朝・昼・晩と三度下読みをし て、今この講座に臨んでいるのじゃ。師家がそれだけ慎重に努力をしているのに 対し、真似事のような下読みじゃ申訳ないと思わぬか。切に反省を望んでおく。

ま、それはそれとして、ここにいう「此の事」とは「箇事」とも書き、簡単 にいえば悟りの眼を開くこと、理屈っぽくいえば般若の知見を体得することであ る。「諸士よ、悟りの眼を開き、道眼を磨け。そうすれば清明な明珠を掌中に持 つようなもので、万縁万境をいささかの歪みもなく映しとり、従って正しくそれ に対処できよう」というのが、この示衆の大意である。なお、どうでもよいこと のようであるが、趙州和尚の「明珠」という比喩を「明鏡」と改めた方が、宗旨 がはっきりすると思うがどうであろうか。なぜなら真珠のような球面には物は歪 んでしか映らぬものだからである。これに反して平面の鏡なら物の姿がいささか の歪みもなく、在りのままに正しく映るからである。
およそ万人皆等しく生まれながらに此の明珠いや明鏡をそなえており、諸士も 無論それぞれに一枚の明鏡を持っている。だが、諸士の場合、本来清明な筈のそ の鏡が、煩悩妄想に覆われて曇ってはいないか、妙なイデオロギーや先入見によ って鏡に色がついてはいないか、また利害打算の念だの恐怖心だのによって鏡の 面が波立ったり傷ついたりしてはいないか、どうじゃ? そのような曇りや錆や 傷をきれいに拭い去って、本来の清明な鏡にもどすのが禅の修行である。そうす ることによって、真空無相で清明な本来の鏡を回復するのが、禅のいわゆる開悟 である。それがここにいうところの「此の事」である。

この真空無相で一点の曇りも錆も無い鏡が手に入れば、「胡 来れば胡現じ 漢 来れば漢現ず」で万縁万境が即座に少しの歪みもなく正しく映るのは、今更 いうまでもないことじゃ。なお、ここにいう「胡」とは中国からみて西の方の国 々から、いわゆるシルクロードを経由してやって来た人びと、胡人のことであり 、「漢」はいうまでもなく漢人のことである。しかしこの句は更に
 胡 来れば胡現じ 胡 去れば胡没し 漢 来れば漢現じ 漢 去れば漢没す
と補うことによって完結するのである。明鏡というものは、その前に来たもの を即座に正しく映し、いわゆる「正受」するが、その物が向うへ行ってしまえば 、忽ちその映像が消え、しかも些かもその跡形をのこさないことは御承知のとお りで、これを正受に対して「不受」というのである。この「正受して不受」とい うこと、これが鏡の鏡たるゆえんであるが、禅はこの働きを大いに珍重するので ある。
およそ禅の最も尊ぶのは三昧ということであり、その三昧とは正念相続・自他 不二という二側面とこの「正受して不受」という側面の三つを一つに統合した働 きをいうのである。禅定三昧ということは、世間の人びとが往々にして考えがち なように、夢中になってのぼせあがることではない。白いものは白い、きれいな ものはきれいと正受してまぎれないことであり、同時にその反面、それが二念・ 三念に発展しないこと、不受なこと、それが本当の三昧である。些か法話めいて しまったが、「自己本具の明鏡を発見し、その曇りを去って真空無相の本来の姿 をとりもどし、そしてそれを正受して不受と自由に働かせよ」というのが、趙州 がここで皆に言おうとしたことである。よく味わって骨折るべし。

(5) 趙州云く、老僧は一枝草を把って丈六の金身と作して用い、丈六の金 身を把って一枝草と作して用う。仏は即ち是れ煩悩、煩悩は即ち是れ仏。

この則を解釈する上のキーワードは、一本の名も無い草という意味の「一枝草 」の三字であるが、下読みの際、諸士はこれを何の比喩と見当をつけたか。文章 全体の構成からみて、それが煩悩ないし煩悩具足の凡夫身の比喩であること位は 、見当がついただろう。したがって「一枝草を把って丈六の金身と作して用う」 とは、「煩悩を転じて悟りを開き、煩悩の固まりの凡夫身を一丈六尺の紫磨黄金 の仏身に転じて縦横に働かせる」というほどの意味である。【大地を変じて黄金 と為し 長河を撹いて酥酪と為す】という禅語があるが、それとほぼ同じ意味で 、迷える凡夫が悟った仏となって働くこと、と見てよかろう。仏・菩薩の誓願は 例の『四弘誓願』が示す通り、自利・利他円満ということにあるが、この句はそ の自利の面、上求菩提の行を表現したものである。これはまだよく分るが、些か 分りにくいのは「丈六の金身を把って一枝草と作して用う」という後段である。

後段は簡単にいえば、「折角苦労して成り上がった仏身を、こんどは逆に凡 夫身に成り下げて働かせる」ということである。だが、何故そうするのであろう か。それはほかでもない、衆生済度といい「下化衆生」という利他の誓願をはた さんがためである。衆生の多くは迷いの泥海に溺れて救いを求めている。その場 合、自分だけが清浄で安全な場所に居って、そこから「皆の者よ、こっちへ来い 」などと号令をかけてみたところで、それでは彼らを救えない。自らその泥海の 中へとびこみ、衆生と同じに身をやつし、いわゆる「和泥合水」するのでなけれ ば、衆生済度はおぼつかない。衆生と同じ次元まで身をやつし、和泥合水するこ と、それを趙州は「丈六の金身を一枝草と作して用う」と表現したのである。前 段も決してやさしいことではないが、しかし後段の方が遙かにむづかしい。『禅 林句集』に【土を握って金と成すは猶お易かるべし、金を変じて土と成すは却っ て還た難し】という句があるが、たしかにその通りである。ミイラ取りがミイラ になり、或いは人も救えず自らも溺れてしまっては、元も子もないからである。 ともあれ、大いに修行に励み、自らを錬磨しておくことじゃ。

次に趙州は「仏は即ち是れ煩悩、煩悩は即ち是れ仏」と続けているが、これ は「煩悩即菩提」といい「迷悟不二」「仏凡一如」ということを別に言い換えた もので、既にこれまで再々説いて来たところで、今更くだくだしい説明もいるま いと思う。しかし、これに関連してお主らに是非言っておきたいことがある。「 煩悩即菩提」の法理を分らせるために、よく渋柿が比喩として使われる。元来、 あまり渋くない柿はいくら渋ぬきをし、或いは皮をむいて干柿にしても、トロリ とした甘い柿にはならない。これに反し、私の郷里山形の上山の柿は、その渋さ といったら大変なものだが、これを干した紅干柿の甘さといったら、まさに天下 一品である。これは渋みがどこかに脱けて、甘味が新しく入ってくるのではない 。どういう化学変化か知らないが、渋みがそのままコロリと甘味に変るのである 。煩悩が菩提に変るのは、あたかもこれと似ているというので、「煩悩即菩提」 を説くのに渋柿がよく比喩として使われるのである。この比喩はたしかに面白い が、注意しなければならぬことがある。それは渋柿は皮をむいて秋の陽に干しさ えすれば、甘くなる。いや、もがずに木の上にほっておいても、自然と熟柿が出 来上るが、人間の煩悩はそのまま放置しておいたら何時迄たっても煩悩であると いうことである。骨折って悟らなければ、煩悩は仏にならないことを肝に銘じて おきなさい。

なお、もう一句、【泥多ければ仏大なり】という禅語を紹介しておこう。昔 も今も土を材料とした、いわゆる泥仏が造顕されているが、その場合、泥の分量 がわずかしかなければ小さな仏像しか出来ないが、もしその泥がドッサリあれば 大きな仏像を作ることが出来るのは見易い道理である。ところでここにいう「泥 」はすでにお察しのように、五欲煩悩をさしている。実際、【沈香も焚かず屁も ひらず】というような人間は間違いはしないが、鍛えてもさほどの大人物には仕 上らない。欲望のかたまりのような野性味ゆたかな人間こそ、大きな仏になりう る材量をドッサリ備えていると言ってよかろう。「私は煩悩が多く、迷いが深く て、とても禅の修行には向かない」という人がおるが、それは大間違い、「泥多 ければ仏大なり」で、そういう人こそ禅の修行に向いているのじゃ。(笑い)

しかし甘えてはいかん。渋柿の場合は、先きほども言った通り、ほっておい ても自然に甘くなるが、泥の場合は、本人自らがその泥を仏に作ろうとしない限 り、泥は永遠に泥のまま、煩悩はいつまでも煩悩で腐るだけだ。ここの道理をよ くわきまえて「煩悩即菩提」、趙州のいわゆる「仏は即ち是れ煩悩、煩悩は即ち 是れ菩提」を味わって、修行に精進しなされ。


(6) 僧 趙州に問う、如何なるか是れ趙州? 州云く、東門 西門 南門 北 門。


此の則は、我が教団では公案として『瓦筌集』の第161に採られており、 『碧巌録』にも第九則として採録されているものであるから、ごく簡単にしてお こう。或る僧が趙州和尚に向って、「如何なるか是れ趙州?」と問いを発した。 この問い、一見何でもない尋常な問いのようであるが、実は両天秤をかけた相当 に意地の悪い問いなのじゃ。というのは、この問いに対して和尚が「趙州という 町は……」と答えると、「いや、私のお尋ねしているのは町としての趙州のこと ではなく、和尚の人となりを問うているのです」と答えるつもり。又、「趙州と は儂のことじゃ……」と答えれば、「私のお尋ねしているのは趙州の町のことで ……」と応ずるつもりである。ところが名にしおう天下の趙州和尚、この僧の魂 胆をとっくに看破して、その手は桑名の焼き蛤とばかりに「東門・西門・南門・ 北門」と応じた。これは何とも見事な扱い、さすがに「口唇皮子上に光を放つ」 と称された趙州大和尚である。だが、どこがいったい見事なのか?

およそ当時の中国の都市は、町の周囲に高い城壁をめぐらし、その東西南北 に門を設け、都市への出入はそこからすることになっていた。趙州の町の構造も そうなっていた。だから趙州のこの答えは、「さァ、東西南北どの門でも好きな 門から入って十分に見物しなされ」という意味と、「儂を見たいとおっしゃるか 、さァ前からでも後からでも、右からなり左からなり、よーく御覧なされ!」と いう意味と両方をこめたもので、この僧、ただ恐れ入るほかなかったことであろ うよ。
それにしても趙州和尚、よくもこう当意即妙に適切な答えがスラスラと出てく るものじゃわい。しかし、これを単に口達者と見たのではあたらない。心の掃除 が行届いていて些かのけい礙もなく、肚に一物もなくまことにきれいだから、こ ういう見事な言葉がスラスラと出てくるのじゃ。きたない肚から美辞麗句をなら べたとて駄目だ。とにかく正念相続に努めて心を掃除し、肚をきれいにしておく ことじゃ。そうすれば、その時、その場に応じ、人の心を打ち、しかもユーモア を含んだ当意即妙の挨拶が、自らスラスラと出てくるものじゃ。
しかし、この則で何よりも肝心なことは、「儂を知りたい、見たいというか。 さァ、どっからでも見るがよい」と、大自信をもって言うことが出来た趙州和尚 の境涯とその風格を仰ぎみることである。お互いも、人と生まれた生き甲斐に、 半歩でも四半歩でも、趙州の境涯に近づきたいものですなー。


(7)僧問う、牛頭 未だ四祖に見えざるとき、百鳥 花を銜みて供養す。 見えて後、何としてか 百鳥 花を銜みて供養せざる? 師云く、世に應じ、世 に應ぜず。


ここに「牛頭とあるのは、四祖大医道信に参じて其の法を嗣ぎ、牛頭山弘覚 寺に住し、牛頭禅という一派の祖と仰がれた法融禅師(594〜657)のこと である。そして、この逸話は『景徳伝燈録』巻四の牛頭法融の章に見えている。 或る時、一人の僧がこの逸話をかつぎ出して、
 牛頭山の法融禅師が未だ四祖に見えない以前、したがって修行がまだ完熟し ない時、坐禅をしていると、多くの鳥が美しい花をくわえて来て彼に供養しその 坐禅が見事だといって、これを賛歎していた。ところが、彼が四祖大師に見えて 大悟してからは、これからこそ花供養と礼讃とがあってよさそうなのに、却って それが無くなったということですが、これは何故なのでしょうか? どういう仔 細なのでしょうか?

と趙州に問うて来た。これに対して趙州は「世に応じ、世に応ぜず」「世間 に応ずると、世間に応じないとの違いだ」と答えているが、これは又どういうこ とであろうか。諸士はどう思う。実はこれと似た話が『大品般若経』に出ており 、『碧巌録』第六『日々是好日』の則に添えた頌の中で雪竇は、これを「空生巌 畔 花狼籍」の一句で表現している。釈尊の弟子の中で「解空第一」と称された 須菩提が、巌窟で坐禅をしていると、帝釈天がしきりに花を降らして讃歎をした 。「須菩提はこれを文字通り讃歎されたものと喜んでいるが、それは実は讃歎さ れたのではなく、帝釈天にからかわれたのじゃ。賛否いずれにもせよ、他から覗 き見られるようでは、その坐禅はまだまだ本物ではない」というのが雪竇の肚で ある。
 
牛頭法融が四祖道信に参ずる以前に、百鳥から花を供養されたのは、その境 涯がまだ「心々不異」「念々正念、歩々如是」という境涯には未だ届かず、あた かも須菩提の場合と同じように、他から覗き見され、乗ぜられる隙があったから である。四祖に参じて大悟してから百鳥の花供養が無くなったのは、彼の正念が 終始切れ目なく、しかもいきいきと相続し、天魔外道はもとより仏祖と雖も覗き 見も出来ない境涯に到ったからである。【諸天も花を捧ぐるに路無し】という、 本当の坐禅三昧さらには一行三昧の境涯に到達したからなのである。そして趙州 は、牛頭の前の境涯を「世間の人にもまだ覗き見出来る境涯」という意味で「応 世」といい、「世間の人には窺い知ることの出来ない境涯」という意味で「不応 生、世に応ぜず」といったのである。真の仏祖の境涯というものを知る上に、よ い手がかりとなる一則である。

(8)僧 趙州に問う、了事底の人は如何? 州云く、正に大いに修行す。僧 云く、未審し、和尚還って修行すや也た無しや? 州云く、著衣喫飯す。僧云く 、著衣喫飯は尋常の事なり。未審し、修行すや也た無しや。州云く、汝 旦く道 え、我 毎日なにをか作す?

 この一則は、本当の修行とはどういうものか、それを識得するのにまことに 打ってつけの一則である。一人の僧が趙州和尚に「了事底の人は如何?」と質問 した。それにしても「了事底の人」とはどういう人のことであろうか。禅の修行 は、毎度申す通り、坐禅の行によって先づ自己に生れながらに具わっている仏性 を発見することから始まる。そしてこれを見性入理の段階といい、初関を透過し たともいうのであるが、更にいわゆる悟後の修行を続け、発見した仏性を育成し 、悟りを深めて見性悟道の境涯に到る。この辺がわが教団でいえば風大級から空 大級に相当する。しかし、この段階では迷いは影をひそめても、悟りの臭みがま だ完全に抜けきってはおらず、本当の自由を得てはいない。そこで更に修行を積 みに積んで、悟了同未悟とか迷悟両忘とか或いは帰家穏坐とかいわれる境涯にま で達する。この境涯を見性了々底の境涯ともいい、ここまで達した人を大事了畢 の人というのであるが、ここにいう「了事底の人」とはまさにこの修行の一通り 了った大事了畢底の人をいうのである。
 
この問話の僧は「了事底の人」は「修行を了った人」なのだから、もう修行 はしないものだと思いこんで「了事底の人は如何」「大事了畢底の大禅者は、了 畢後はどうするのですか」と問うたのである。こう問われて趙州和尚云く「正に 大いに修行す」と。趙州の肚は、「大事了畢の後こそ本当の修行なのじゃ」とい うのである。確かにその通りである。両忘庵宗活老師はよく【釈迦・弥陀も今に 修行最中】と仰せられたものでした。釈迦如来や阿弥陀如来といえば、百パーセ ント完成された仏であるのに、なおも今もって修行しておられるというのだから 、大事了畢底の者が「正に大いに修行す」るのは当然のことというべきである。 お茶の席に【白圭尚可磨―白圭も尚磨く可し】というお軸がよく掛けられるが、 この語をじっくり味わってみなさい。もうこれ以上、磨く余地もないと思われる 白玉も、なお磨く余地があり、磨けば更に一段と光沢を増すというのである。修 行はどこまで行っても、これでよいという限りは無いものであります。

ところが、この坊さん、禅の修行というものは朝・昼・晩の坐禅・公案の工 夫と入室参禅、経典の読誦や勤行ないしは提唱聴聞のことだと思いこんでいる。 その考えで趙州和尚の日常を拝見すると、和尚はそういう意味での修行を特にな さっておるとも見えない。そこで重ねて「未審し、和尚還って修行すや也た無し や」「和尚様は今、了事底の大禅者は正にこれからこそ大いに修行する、と仰せ られましたが、私にはどうも納得いきません。和尚のご日常を拝見しております と、別に修行をなさっているとも見えませんが」と疑問を率直にぶっつけた。こ う言われて趙州云く「着衣喫飯す」「儂は飯を食ったり、衣を着たり何やかやと やっておるわい」と応じてケロリとしてござる。こう言われてこの僧「着衣喫飯 は尋常の事なり。未審し、修行すや也た無しや」と重ねてつっかかって来た。こ の僧、修行とは日常を離れた特別な行、殊勝げな所行だと思いこんでいるのじゃ 。およそ禅の修行、とりわけ大禅者の修行というものは、正念工夫不断相続に努 めることだ。一切時、一切所において「正念の工夫、断絶すること無からんこと を願う」て、正念相続につとめること、それが本当の修行である。趙州が「我れ 毎日何をか作す」「儂は毎日、朝から晩まで、晩から朝迄何をしていると思うか 」と言ったのは、その事を言ったのじゃ。「儂は着衣喫飯、行住坐臥、いつも正 念の相続につとめているが、それが修行でないというのか。日常茶飯事を離れた 殊勝げな行をすることだけが、修行ではないぞ」と断案を下したのが、「我れ毎 日何をか作す」の真意である。
 
この席にはお茶関係や大学の剣道部の諸君がおられるようだから、特に憎ま れ口をたたいておこう。お茶の方でいえば、お師匠さんのもとでお道具を扱って お点前の稽古をしている時だけが、茶の修行だと考えている人が案外に少なくな いようであるが、それは途方もない料見ちがいだ。着衣喫飯みな修行である。剣 道でいえば、道場で防具をつけて打合いをしている時だけが修行なのではない。 それだけなら剣道ではなく単なるささら踊りやスポーツにすぎない。行住坐臥、 一挙手一投足みな修行でなければならない。修行とは要するに、一行三昧、一相 三昧で、正念の相続につとめることじゃ。そして、そのことは次の一則で更に一 層はっきりするであろう。

(9)僧 趙州に問う、如何なるかこれ道場? 州云く、汝 道場より来たり 、汝 道場より去る。脱体是れ道場、何れの処か更に不是なる。


   道場とは一般には、道を修行する神聖な場所、その修行の目的を達成す るのにふさわしい特別な施設を施した建物の意味に理解されている。とりわけ禅 の道場は、別に「選仏場」とも呼ばれ、坐禅中心の修行にふさわしく、俗世間か ら離れた静閑で清浄な場所に設けられるのが普通である。趙州和尚に向って、改 めて「如何なるか是れ道場?」と問うたこの僧も、禅の道場というものを、この 通念に従って理解していたものと思われる。それだけに、この問いに対する「汝  道場より来り、汝 道場より去る。脱体是れ道場、何れの処か更に不是なる」 という和尚の答えには、さぞかし面食らったことだろう。仰天したこの僧の顔が 見えるようじゃ。趙州和尚のこの語、格別解説する迄もないのだが、今日は若い 新到の顔も見えるから敢えていえば
  お主、今どこからやって来たか。なに、麓の町の宿屋から来たというか。 それなら、そ  の宿屋が道場じゃ。今、お主の坐っている儂のこの方丈は、無 論、道場じゃ。お主はや  がて道場から去って行くことになる。ここを去って 何処へ行くつもりじゃ。隣の村の友  人の家へ行くというか。それなら、その 友人の家がやがてお主の道場じゃ。いやしくも  修行者であるお主の居る処、 そこがそのままでソックリ道場じゃ。「脱体是れ道場」で  ある。何処に道場 でない処があろうか、何処も彼処もみな道場である。

というようなことである。維摩居士は光厳童子に【直心是れ道場】と教示し 【歩々是れ道場】という禅語もある通り、修行者にとってまさに「何れの処か道 場ならざる」である。此の静閑清浄な石狩道場だけが道場なのではない。わが家 に帰ればわが家が、バスに乗ればバスが、会社に出れば会社が、そのままで道場 じゃ。剣道をやる者にとっては剣道場という特別な建物だけが道場なのではない 。お茶人にとって茶室だけが道場なのではない。わが家の台所もマーケットの売 場も道場である。
前の則(8)では、日常茶飯の一切の行がみなそのままで立派に修行である とあったが、この則で、一切処がそのままで修行の道場であることが分った筈。 しかし、ただ頭で分っただけでは役に立たない。一切時、一切処また一切行みな 修行であることをよく肚に入れて、それを実行するように。

(10)趙州 上堂し衆に示して云く、金仏 炉を渡らず。木仏 火を渡らず 。泥仏 水を渡らず。真仏 屋裏に坐す。


 これは「趙州三轉語」と題して、『碧巌録』の第九十六則にも採録されてい る有名な一則である。既に少なくも二回講じているわけだから、今更とも思うが 、偶像を以って仏とする世間の謬見を打ち砕くのによい則であるから、ザーッと 講じておこう。
 現代の日本にもまだ有るが、趙州和尚の唐代の頃には、仏というと寺の須弥 壇に祀られている木仏・金仏を連想し、これらの偶像を仏だと考える人びとが多 かったようである。この一則はそのような偶像崇拝の迷信を打破し、真仏の何た るかを分らせてやろうという趙州和尚の老爺親切からあふれ出た示衆である。お よそ仏とは『般若心経』に「不生不滅」とあるように、生滅にあずからないもの 、端的にいえば「火に入って焼けず、水に入って溺れず」で金剛不壊なるもので ある。

 一般のいわゆる美男美女は、寺の須弥壇上に祀られている巍々堂々とした金 銅仏を仏様だと思って熱心に合掌礼拝してござる。真仏の何たるかを知っての上 での事なら、それでよいが、それを知らないでこれを真仏だと思いこんでいると したら、それは迷妄といわざるを得ない。どのように巍々堂々とした金仏でも、 熔鉱炉の中に入れりゃ、忽ちにトロトロと熔けてしまう。現に聖武天皇が国力を 傾けて造顕した東大寺の大仏は、源平会戦の時に一度焼けただれて、更に戦国時 代に織田信長に攻められた松永弾正久秀の放火で再度焼け、天平時代の原型をと どめているのは、大仏の台座の数葉の蓮弁にすぎない。まさに「金仏 炉を渡ら ず」である。「仏とは金剛不懐なものである」という根本の教理からみれば、「 金仏は仏とは言えない」というのが趙州の肚である。

 「木仏 火を渡らず」も同様で、今更説明もいるまい。丹霞天然が本尊の木 仏を焼いたことは御承知の通り、どんな有難そうな木仏でも火に入れたら忽ちに 燃えてしまう。「泥仏 水を渡らず」も同様である。泥仏とは土を主な材料とし たいわゆる塑像の仏像で、わが国でも奈良時代にこれが流行し、東大寺三月堂の 日光・月光の両菩薩像や、同じく戒壇院の四天王像など多くの国宝級の傑作が今 にのこっている。しかしこの傑作といえ、十日間も水漬けになっていたら、グニ ャグニャと元の泥水に戻ってしまうことは必定であろう。最近は鉄筋コンクリー トで作られた仏像も多いが、これとて土建屋のあの大きなハンマーでガーンとや れば、崩れてしまうし、画像に至ってはマッチ一本で燃えてしまう。いずれも金 剛不壊どころの話じゃない。とすれば、それらは「真の仏」とは申せない道理で ある。

 それでは「真仏はどこに御座るか」という疑問が起こるのは当然の話、これ に対し趙州は「真仏 屋裏に坐す」と明快に断案を下した。但しここに「屋裏」 というのは、建物の屋根の下ということではない。この「五尺の肉体のうち」と いう意味である。すでに見性したものは、自らの体験を振りかえってみるがよい 。お主らの仏性、それこそ真仏の本体なのだが、それがどこに宿っていたか。切 れば血も出る、膿も出りゃ糞も出る、この五尺の肉体に宿っていたではないか。 禅の修行というものは、畢竟するに坐禅して三昧力を涵養し、その三昧力によっ て「自家屋裏の真仏」を発見し、それをスクスクと育てあげ、一切時、一切処に おいてこの真仏が惺々としており、何をするのも皆、真仏の働きとなるように自 己を鍛えていくことだと言ってよい。

 五尺の肉体に鎮座まします真仏にまだお目にかかっていないものは、お目に かかれるよう真剣に坐禅して公案の工夫三昧になりきれ、正念のかたまりになり きりなされ。又、既に見性したものは、更にこの真仏を育てあげ、大仏となるよ うに骨折れ! その上でなら、須弥壇上の木仏、金仏に対して合掌礼拝しても、 それは偶像崇拝ではない。

(11)僧 趙州に問う、万法 一に帰す。一 何れの処にか帰す。州云く、
我れ青州に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤。


 或る時、一人の僧が趙州和尚に向って、「万法一に帰す。一 何れの処にか 帰す」と、大変厄介な哲学的な問題をかつぎだして問うて来た。それに対する趙 州の扱いを見る前に、この問いの意味を明らかにしておこう。
 「法」には、毎度申す通り、二つの意味がある。一つは、仏法・法則などと いう場合の真理という意味であり、もう一つは存在とか物とかいう意味である。 ここにいう「万法」の法は後者の意味で、従って「万法」とはこの世に存在する 一切の物、万物・万象の意味である。およそ仏教の方で、この世界とそこに存在 する人間はじめ万物の生成を説くのが縁起の思想であり、それには法界無尽縁起 などの高度の思想もあるが、最も理解しやすく古来一般に行われているのは、人 間をはじめ一切の存在は唯一絶対なるもの、真如の発露し顕現したものである、 という真如縁起の思想である。そしてその点は、中国固有の老荘の思想において も似ている。『老子道徳経』の第四十二章を見ると、そこに「一 二を生じ、二  三を生じ、三 万物を生ず」とある。根本の一つが分裂して陰陽の二となり、 陰陽が相交わって三を生じ、その三がついに万物となるというのであるが、これ を逆にたどれば、「万物 三に帰し、三は二に帰し、二は一に帰す」すなわち「 万物 一に帰す」ということになる。そして同じ思想は、日本に伝来して朱子学 となった宋代の儒学いわゆる宋学においても見られる。即ち宋学の礎をおいた周 敦頤(濂渓)の『太極国説』に

   太極 両儀(陰陽)を生じ、両儀 四象(春夏秋冬)を生じ、四象 八 卦を生じ、八卦 吉凶を生ず。
とあるのがそれである。「八卦 吉凶を生ず」は「八卦 万物を生ず」と同じ 意味にとってよい。これ亦、逆にたどれば「万物 太極(一)に帰す」というこ とになる。この僧、こういう世界観に立って、「万法は一に帰す、それではその 一は何処に帰するのですか」と趙州に哲学的な論争を挑んで来たのである。とこ ろが趙州和尚、この問いに対して、あたかも木に竹をついだように「我れ青州に 在って、一領の布衫を作る。重きこと七斤」と応じられた。文字の意味は、

 昔、儂は故郷の青州に居った頃、一着の布子を作り、大変に愛用し重宝した ものだった。しかし、それは重さが七斤もあったわい。
ということである。これはいったい、僧のこの「一 何れの処にか帰す」とい う問いに答えているのであろうか。もし答えているとしたら、どこでどのように 答えているのであろうか。
 これはわが教団では『瓦筌集』の第79則に採られている公案で、説明の限 りではない。しかし、これは又、『碧巌録』の第45則に採録されており、『碧 巌録』の土台を造った雪竇重顕が、趙州の肚を看破してこれを七言四句で頌じ、 その頌を「如今 放擲す西湖の裏 下載の清風 誰にか付与せん」という二句で 結んでいる。この二句をよく味わうと、「万法 一に帰す、一 何れの処にか帰 す」に対する趙州の答え、「我れ青州に在って云々」の肚が、おんのりと察しが つくから、この雪竇の二句を些し解説して見ようと思う。それに先立って語句の 意味を説明しておく。「如今」とは「今や」という位の意味、「西湖の裏」とは 杭州市のあの風景のよい西湖とは限らない、「西の湖」というような意味で東支 那海でも黄海でも太平洋でもかまわない。次に「下戴の清風」であるが、船や車 、或いは牛・馬などに荷物を戴せるのを「上戴」といい、その荷物をおろすのを 「下戴」というのである。この語については、拙著『一行物』に解説してあるし 、詳しいことは時間もないので今は略し、別な例で簡単に触れるに止めよう。登 山の経験のある者なら分るだろう。汗水たらして漸くに山頂を極め、ヤレヤレと ばかり、肩に食い入る重いリュックサックをドッカと下す、その途端、下の雪渓 から風が吹きあげてくる、登頂の満足感もさることながら、この解放感と爽涼さ は全くたまらないものである。しかしこの満足感や涼しさは当人が味わうだけで 、他人に分与することは勿論、伝えることも出来ないものである。「下戴の清風  誰にか付与せん」とは、まさにこの事を詠じたものである。扨てここで話を本 筋に戻そう。

 趙州が僧の「万法 一に帰す。一 何れの処にか帰す」という問に対して、 「我れ青州に在って一領の布衫を作る。重きこと七斤」と答えたのは、
  儂は青州に居った時分に立派な一着の布子を作り、若い時分にこれを自慢 で着用し重宝 したものだった。しかし、それも昔の話、今ではその布子すっか り古くなって破れ、綿も 堅くなり、却って窮屈な重荷になっていまった。それ で、その古いボロ布子、捨ててしまったわい。
 
というような肚なのである。そして雪竇、趙州のその肚を看破して、「そん な重い古布子、とっくに西の海へ捨ててしまったわい。捨てたことによって得ら れたこの身軽さ、涼しさは、全くたまらない」という意味を「如今 放擲す 西 湖の裏 下戴の清風 誰にか付与せん」と頌じたのである。

 趙州和尚、僧の問うた「一」を「一領の布衫」に託し、「「一」なんという そんな堅苦しいもの、もうトックに捨ててしまったわい」と、「一 何れの処に か帰す」にサラリと答えているのである。それにしても此の「一」、「重きこと 七斤の一領の布衫」とは、いったい何を指しているのであろうか。これをヤレ「 真如」だの、儒教の「天命」だのと哲学的に解釈すると分らなくなる。諸士の場 合、これを苦心して手に入れた「悟り」と取っておいたらよかろう。禅の修行と は、苦心して悟りを開き、その悟りを深めた挙句、その悟りをいつの間にか忘れ てしまうことだと分れば、成程と肯けよう。迷いはもとより悟りも忘れて無一物 になり、【物持たぬ袂は軽し夕涼み】という句の境涯に遊ぶこと、それが、自利 に限っていえば禅の修行の目標である。この則を既に見たものは、この一則の眼 目がまさにここにあることを改めて識得して、もう一度よーく味わって見ろ。【 物持たぬ袂は軽し夕涼み】、いいですなー。

(12)僧 趙州に問う、和尚の年 多少ぞ? 州曰く、一串の数珠 数え尽 さず。


 趙州和尚は、冒頭に申した通り、八十歳まで行脚し、さてそれから百二十歳 まで化を挙げたという、まるで化物のような和尚である。和尚の何歳の時か分ら ないが、恐らく晩年のことであろう。一人の坊さんが趙州に向って、「和尚の年  多少ぞ?」「和尚様はお幾つになられますか」と問うたら、いとも無造作に「 一串の数珠 数え尽くさず」と軽く返って来たという。この一則、まことに【口 唇皮子上に光を放つ】といわれた趙州大和尚の面目躍如たる問答で、「恐れ入り ました」と唯々脱帽するほかはない。何とも恐れ入った和尚じゃ。 

 数珠はご承知のように、百八煩悩にたとえた108の珠を一本の糸で貫いた ものである。珠の数は108箇であるが、輪をなしていてグルグル循環するから 、幾ら数えても数え尽くすことはない。いわば無限である。「和尚様のお年齢は お幾つですか」と問われて、「何歳になった」とは答えず、「一串の数珠 数え て数え尽くさず」と答えたその肚は、  儂の寿命は有限であって無限であり、 無限であって有限である。ということである。そしてそれは趙州和尚の寿命だけ でのことではない。お互いわれわれの寿命も亦然りじゃ。

 およそ人間なんというものは、無限絶対の大海から、もろもろの因縁が和合 して、フーッと海面に湧き出た水の泡のようなものだ。その泡、大きいもの小さ いもの、永もちするものと生まれるとすぐはじけてしまうもの、光るものと光ら ぬものと色々あるが、いずれは皆やがては元の大海に帰してしまう。それが死で ある。その意味では人間の寿命は有限である。しかし戻るその海は無限であり絶 対であり、その意味で人間の寿命は無限である。要するに生と死とは一如であっ て、人間の寿命は本体から見れば無限絶対であり、その形相からみれば有限相対 なものである。趙州和尚は、儂のように面倒なことを言わず、それをサラリと「 一串の数珠 数え尽くさず」と言われたのである。

 趙州和尚の此の一則を深く味わって、生と死との問題を正しく解決し、その 大安心に往して、【日々是れ好日】と慶快に人生を生きたい、味わいたいもので すなー。今晩はこれ迄。

(13)僧 趙州に問う、学人 南方に向って些子の仏法を学び去らんと擬す 、如何? 州云く、汝 南方に去きて、有仏の処を見ば、急ぎ走過せよ。無仏の 処、住まることを得ざれ。僧云く、よもなれば即ち学人依るところ無き也。州云 く、柳絮 柳絮。

今回の河北省趙州の観音院には、趙州の名聲を慕って多くの学人・修行僧が来 集し、又そこから行脚に出かけて行った。そうした雲水の一人が或る時、趙州の 前に出て来て、「学人 南方に向って些子の仏法を学び去らんと擬す。如何?」 「私はこれから、江西・湖南などの南方に参り、些か南方の禅道仏法を学んでみ ようと存じます。それにつけても、どんな点に気をつけて行脚したら宜しいか、 その心構えについて御指示いただきとう存じます」とお伺いをたてた。そしたら 、「汝 南方に去きて、有仏の処を見ば急ぎ走過せよ、無仏の処、住まることを 得ざれ」という指示が返って来た。これはいったい、どういうことであろうか。 些か迂路にわたるが、「有仏の処」「無仏の処」のについて、一言触れておこう 。

そもそも「色即是空 空即是色」、松尾芭蕉の俳諧論の用語を借りれば「流行 して不易 不易にして流行」というのが事物の実相であり、大乗仏教の世界観で ある。それなのに、この世界とそこに存在するものは常住不変なものだとして、 これに執着する見解、これを常見といい、これとは逆に人間をはじめ万物は死滅 を免れず、畢境するに空々寂々、虚無であるという見解、これを断見ということ は、以前に説いたことがある。法理の上では「有仏の処」とはこの常見をさし、 「無仏の処」とはこの断見をさすのであり、「汝 有仏の処を見ば急ぎ走過せよ 、無仏の処、住まることを得ざれ」とは、「常見にも断見にもとらわれるな」、 というのが本来の意味である。しかし、ここではそんな面倒臭い意味ではない。 ここで「有仏の処」とは堂々とした伽藍を構え、殊勝げな法会を催し、通俗な説 法をしてお布施やお賽銭をドッサリ集め世俗的な繁昌を誇っている寺と見てよか ろう。そんな寺に長逗留していたら、いつかその俗臭が身にしみついてしまうか ら、そこは急いで通りすぎよ。また「無仏の処」とは、余りにも孤危険峻で人も 寄りつかず門前雀羅を張るような寺の意味にもとれるが、ここでは、禅道仏法の 命脈の伝わっていない寺と見た方が分りやすい。そんな禅のない荒廃した寺に足 をとめたところで修行の害にこそなれ、何の足しにもならん。だから、そこには とどまるなと、まあ、この程度に解釈しておいてよいだろう。

「有仏の処は急に走過せよ、無仏の処には住まることを得ざれ」とこう指示さ れて、この問いを発した坊さん、すっかり面くらって「与ゥなれば、即ち学人の 依るところ無きなり」「それでは私の寄るところが無いじゃございませんか。ど うしたら宜しいでしょうか」と思わず泣き言を吐いた。こう泣きつかれて和尚、 どう扱われるかと思いきや、「柳絮!柳絮!」とケロリとして、しかもおだやか に示された。だが、この「柳絮!柳絮!」とはどういう肚であろうか。

この席には、「風 柳絮を吹けば毛毬走り、雨 梨花を打てば蛟蝶飛ぶ」とい う「円覚経の頌」の公案を見たものも多い筈だが、ここにいう柳絮はこの公案に 出てくる柳絮と同じもので、揚柳の花が終って出来る綿状のかたまりのことじゃ 。札幌でもポプラの絮の飛ぶのが見られるだろう。風が吹くと種子(毛毬)のす っかり成熟した柳絮は、枝にしがみつくこともなく、無心にファーッと舞い上り 、風のまにまに飛んで行く。そこには些かの我もなく、また執着もない。趙州が 僧に向って「柳絮!柳絮!」と示した肚は、「お主、わたしの脚をとどめる処が 無いなどと泣き言をいっておるが、行脚するものにとって何より大切なことは、 風に吹かれて舞い上る柳絮のように、無心にしかも一所不住で修行に励むことじ ゃ。文字通り行雲流水のように無所住で修行なされよ」という程のことである。 まことにその通り、禅の修行とは、執着をサラリと捨てて、大自然とそのリズム を一つにして法爾自然に生き、無作無心になることである。といって無作無心と いっても、何も精神の空白状態になること、いわゆるポカーンとなることではな い。しかし、その辺のことは今は棚上げしておこう。

(14)僧云く、某甲 乍入叢林、乞う、師、指示せよ。州云く、喫粥了 や 、未だしや? 僧云く、喫粥了。州云く、鉢盂を洗い去れ。其の僧 省有り。


  或る日のこと、一人の僧が趙州の前に出て来て、「某甲 乍入叢林、乞う 、師、指示せよ」「私はつい近頃、当山に参りましたばかりの駆けだしの者でご ざいます。これから、どう修行したら宜しいか、何卆お示し下さいませ」と挨拶 した。和尚、一見して「こやつ、自分で駆けだしの未熟者などと言ってるが、少 々修行は出来てる奴、但しその悟りの匂いをまだプンプンさせている程度じゃわ い」と看破したが、さりげなく「喫粥了や、未だしや」「もう食事は済ませてき たか、未だか?」と問われた。この僧こう尋ねられて「喫粥了」「はい、済ませ て参りました」と鼻をうごめかして答えた。すると趙州、「おう、そうか。それ じゃのう、使った鉢盂・飯茶碗をよく洗っておきなされよ」「鉢盂を洗い去れ! 」と言われた。こう言われて、この僧「省有り」で、今後どのように修行すべき かに就いて気がついたというのである。

この問答は表面上、食事は済ませてきたか? はい済ませて来ました。それ なら食器を洗っておけよ、というだけの事のようであるが、裏には深い意味があ る。先ず「食事を済ませて来たか、未だか」とは、単なる食事のことではなく、 「悟りを開いて来たか、どうじゃ」という探りであり、この僧さすがに問いの裏 の意味を心得ていて「一応の悟りを得て参りましたという肚で、はい、食事を済 ませて参りました」と応じた。ここまで言えば、趙州が「鉢盂を洗い去れ、飯茶 碗をよく洗っておけよ」といったのが、「悟りを開いたら、悟りの滓をきれいに 洗い去っておけよ」という肚であることは、鈍いお主らにも分るだろう。どうじ ゃ。

古来、「味噌の味噌くさきは上味噌にあらず。悟りの悟りくさきは上悟りに あらず」と言われているが、確かにその通り。悟りをひけらかしたり、悟りの臭 みをプンプンさせているのは、まだまだ未熟な証拠じゃ。どなたの作か知らない が、瓢箪の絵を描いて、それに「有る鳴らず無きまだ鳴らずなまなかに 些し有 るのがポチャポチャと鳴る」と賛をしたお軸を拝見したことがあることを、今、 提唱している間にフト思い出した。瓢箪の口までタップリと酒が入っておる瓢箪 は振っても音がしない。酒が全く入っていなければ、勿論鳴らない。それが酒が 少々入っていると、いかにも酒が入っておりますぞと宣伝するかのように鳴る、 というのである。悟りが浅くわずかでありその滓がこびりついている間は本物で はない。趙州和尚の「鉢盂を洗い去れ」の一語は、「悟ったら悟りの滓をぬぐい 去ること、それが今後の修行の課題である、そのつもりで修行をなされ」という 、まことに適切なお示しなのである。禅の問答というものは、表面上は、木に竹 をついだようにも見えるが、よく味わってみると、その裏に深い滋味のかくされ ていることが分ろう。いかにも趙州和尚らしい扱いのよく出ている一則である。

(15)趙州 衆に示して云く、老僧 三十年前、南方に在りて、火炉頭、箇 の無賓主の話有り。直きに如今に至るまで、人の挙著する無し。


   趙州和尚、或る時、上堂して会下の大衆に向って、
  儂は昔、三十年程以前になるが、南泉老師の下で修行し、更に南方の各地 を行脚して廻  っていた頃のことじゃが、「火炉頭に賓主無し」と言ったこと があった。しかし、その  後、今日まで、儂のこの語を本当に理解して挙揚し ているものは居らんわい。

と言われた。『趙州録』にもその他の文献にも、何処で、どういう場合に、こ の語が吐かれたかを示す記録は無い。しかし「火炉頭に賓主無し」という語が面 白いので、これを我流に解釈した私釈を披露して、久参の上士と更に世の識者の 御示教とを乞おうと思う。
「火炉頭」というのは、火炉のほとりということで、火炉とは、暖炉・囲炉裏 ・大火鉢、今日ならばストーブなどのことである。又、「無賓主」とは、賓主の 別が無いということである。臨済和尚に『賓主歴然』の公案のあることは、御承 知のとおりである。賓主とは客と亭主、客観と主観ということで、賓主歴然とは 、差別が歴然としていることである。大と小、長と短、男と女、老と幼などの差 別がはっきりしていることである。従って「無賓主」とはその反対に、差別が無 く一味平等だということである。「火炉頭に賓主無し」とは、炉端では長幼・男 女などの差別が無く皆平等であり、睦み合っているというような意味である。し かし、これは具体的にはどういうことであろうか。

  炉は禅堂に常設されてはいるが、この炉が実際に開かれ火が入るのは陰暦 の十月一日からで、翌年の三月の末には閉めることになっている。今日、お茶の ほうで開炉・閉炉(実際には初風呂)の茶事が行われているが、それは禅寺の作 法を見習ったものと思われる。冬になり寒くなると禅堂にもこのように炉が開か れるが、その炭火はほんの僅かでしかなく、しかもその側に寄って暖をとれるの は、修行歴の古いものや役位の者だけで、駆けだしの若い者などが寄りつくこと は許されない。その意味で、普通の場合においては「火炉頭 賓主歴然」である 。ところが冬の摂心会いわゆる雪安居の終る冬至の夜、いわゆる「冬夜」には、 囲炉裏や大火鉢に炭火がドッサリと置かれ、長老と若僧、先輩と後輩との差別が なく、誰でも炉端に寄って手をかざして暖をとりながら団欒するのがならわしで ある。そして、日頃と打って変って御馳走もならび、少々だろうが般若湯もでる という有様……。摂心会円了後の懇親会の有様を思いうかべると分るだろう。「 火炉頭に賓主無し」とは、このことを指すものと思われる。

  禅堂はもとより、役所であれ会社であれ、常日頃は職階制が整然とし賓主 歴然であるべきであるが、時には人間平等の原点に立ち戻って一味平等・賓主無 しとなり、互いに人間として親睦の実を挙げることも大切なことである。趙州和 尚は、上下・新旧の差別のいつも厳しい僧堂生活に、時には一味平等の空気があ ってもよい、いや有るべきだという意味で、「火炉頭に賓主無し」を提唱された のであったろう。しかし、当時の禅僧社会にはこれが理解されず、受け入れられ なかったのであろう。それに対する嘆きが「直に如今に至るまで、人の挙著する 無し」の語ではなかろうか。そして趙州和尚の嘆きは、そのまま現代の職階制の きびしい一般社会にも通じはしまいか。

(16)僧 趙州に問う、如何なるか是れ和尚の家風? 州云く、屏風 破る ると雖も、骨格 猶お存す。


 本則を講ずるに先立って、「家風」ということに就いて、簡単に触れておき ましょう。およそ自然科学上の真理というものは、誰が、いつ、どこで観察し実 験しても、同じ結論が出るものです。自然科学上の真理に、学者の個性が反映し たり、それがそこに滲み出ることは有りません。しかし、宗教上の真理、とりわ け禅の真理は、根本は同じでありながらも、それが実際に働らく場合には、それ を荷担している人の人生体験や個性が相当に色濃く滲み出るものである。これは 禅道仏法というものが抽象的な真理ではなく、教外別伝で以心伝心され、生身の 人間に担われて生きて伝わるものだからなのです。これを荷担する師家の人柄を 通じて発露する、いわば「肉体化された真理」だからなのじゃ。

 達磨大師の禅が、早く漸修を重んじる北宗禅と頓悟を旨とする南宗禅とに分 れ、その南宗禅が世にいう五家七宗に分派し、しかもそれを荷担した宗匠らの大 法の扱いにそれぞれ独特のものの有ったことは、この提唱を聴聞した諸士は既に 気がついている筈じゃ。実際、同じ師家の法を嗣いだ兄弟々子の間でも、根本は 同じとはいいながら、その法の扱いにおいて微妙な違いがあるものです。全く形 骸化した形式禅や鋳型禅ならばいざ知らず、活禅にはその法系や禅者により、そ の発現にはそれぞれの個性味が出るもので、これを広くは宗風、狭くは家風とい うのである。しかも、これは何も禅だけに限ったことではない。同じ利休大居士 から出た茶道が裏・表・武者小路の三千家に分れ、更に遠州・石州などの諸流派 になり、それぞれに流風をもっていることは、ご承知の通り。「家風」について ちょっと触れるつもりが、思わず長くなってしまったが、「家風」というものが どういうものか、およそ分ったことだろう。

  ところで此の僧の「如何なるか是れ和尚の家風」という問いは、「如何な るか是れ趙州観音院の禅風」という意味と、「如何なるか是れ和尚の悟境」とい う意味と両様に解釈される。そのどちらにしても、「屏風 破るると雖も 骨格  猶お存す」という趙州の答所はまことに怖しく、まさに寒毛卓堅、身の毛のよ だつ思いを禁じえない。諸士は下読みして、そう感じたか、どうじゃ。

この答所、先ず「観音院の禅風如何」に対する答えとして解釈してみよう。 ここにいう屏風は、単なる六曲一双の屏風などの家具だけではなく、外部から吹 きこむ風を遮るものすべて、屋根も、部屋の壁も障子も襖もすべてを指すと見た 方が分りよい。従って趙州のこの答えは一応「儂のこの観音院は、年を経たため に屋根も少々雨もりし、壁も所々崩れ、襖や障子も破れ、ご覧の通りのあばら寺 ではある。しかし、それは外見だけの事で骨格はガッチリしており、些かの揺ぎ も無いわい」ということである。そしてそれに託して「儂のこの観音院の禅風は 、『証道歌』に<身貧にして道ならず>という語があるが、丁度それと同じよう に、外見は貧しいが内実は充実している」という自負をにじませているのである 。更にいえば【破襴衫裏に清風を盛る】それがこの観音院の禅風じゃと答えてい るのである。「人間禅教団の禅風如何」と問われて、堂々と自信をもってこう答 えられるようでありたいものですなー。

  次に此の僧の問いを「趙州和尚よ、あなたの悟境如何」という意味にとっ たら、「屏風破るる…」というこの答所はどういう意味になろうか。「儂はのう 、この通り、老齢となり頭も禿げ歯も抜け、身体も大分ガタが来ておる。しかし それだけに迷いも悟りも皆脱落してしまった。敢えていえば、【皮膚脱落し尽し て、唯一真実のみ有り】というところじゃわい。それが儂の今の悟境といえば悟 境じゃ」というようなことになろうか。なお、「唯だ一真実のみ有り」という語 の真意を飲みこめないような顔をしている者があるから、第二義底に成りさがっ て注釈を加えれば、それは「念々正念、歩々如是」と、いつも正念が相続してい るということじゃ。趙州和尚をただ口達者な和尚とだけ見たら途方もないこと、 「屏風 破るると雖も、骨格 猶お存す」というこの一語において、寒毛卓堅して はじめて和尚に相見出来るであろう。何とも恐れいった賊機あふれ、鬼気ただよ う大和尚じゃわい。

(17)僧 趙州に問う、如何なるか是れ和尚の家風? 州云く、内に一物も 無く、外に求むる所無し。


「家風」の問いが出たところで、『趙州録』の配列の順序を変更して、もう一 つ「如何なるか是れ和尚の家風」という一僧の問いに対する、趙州の答所を紹介 しておこう。

  およそ禅問答の場合、同じ問いであっても、それに対する応答は、問いを 発した僧の境涯の熟と未熟、ないしは高と低、又その僧の魂胆やその時の諸条件 によって異なってくるものである。決して一様ではない。前の則における問話の 僧は、境涯が相当に高い一癖ある坊さんであったが、この則の坊さんは前者に較 べれば、まじめで素直で境涯のまだ若い僧である。又、「和尚の家風は如何」と いう問いは、「私めはこれから大いに修行に骨折り、悟りを深め、菩提を求めよ うと願っておりますが、和尚様の唯今の悟境はどのようなもので御座居ましょう か。お漏らしいただきたい」という位にとっておいてよかろう。これに対して、 趙州「内に一物も無く、外に求むる所無し」とスラリと答えられたが、これはど ういう意味であろうか。それは、

  儂の心の中には煩悩や妄想の無いことは無論のことだが、曽ては苦心して 手に入れた悟  りも、殊勝げな仏見・法見も皆きれいに西の海に放下してしま って、今はもう何もない  。文字通り、無一物じゃ。さりとて今更、外に向っ て求める所も無い。若い頃、修行の  未熟な頃から、世間的な金とか名誉とか 地位を求める心が全く無かったと言っては虚言  になるが、今はもう外に求め るものは何も無い。それは出家としては当り前の事じゃが  。なお、菩提や涅 槃を求めるのが出家としての誓願の筈じゃが、儂はそれさえも今や求  めない 。何故、菩提をも求めないのかといえば、儂は今その菩提の中にひたっておるか   らじゃ。

 というような肚である。「内に一物も無く、外に求むる所も無し」で、私の 今の悟境は強いて言えば「外空内空内外空 空々々々畢境空」というところ、些 かしゃれて言えば、「空門 風自ら涼し」というところじゃ、と告白されたのが 、趙州和尚のこの語の真意である。人間と生まれた生きがいに、昂然と面 をあ げて「内に一物も無く、外に求むる所無し」とこう言い得るところまで、死ぬ迄 には到達したいものだと願っている。しかし、間にあうか、どうか。ドーレ、間 に合うように、これからもう一ちゅう(火+柱)香坐ろう。お主らもよく坐れ。 ハイッ。

(18) 僧 趙州に問う、如何なるか是れ仏法の大意? 州云く、汝、名は 什んぞ? 僧云く、某甲。州云く、含元殿裏、金谷園中。


 およそ禅問答で最も頻繁に提起される問いは、「如何なるか是れ仏」「如何 なるか是れ道」「如何なるか是れ祖師再来の意」また「如何なるか是れ仏法の大 意」などである。そしてそれに対する師家の答所は、問者の境涯の高低に応じて 、高低・深浅さまざまであり、ピンからキリまである。この則に登場する僧は極 く初心の者であったから、趙州の答所も初心者向きで、いわばそのピンの方であ る。

扨て「如何なるか是れ仏法の大意」という問いである。一般に「大意」は「 この文章の大意は……」などと使われ、「おおよその意味、概略の意味」に理解 されているが、ここでいう「大意」はその意味ではなく、「根本の主旨」という ような意味である。従って、この問いは「禅道仏法の最も肝心要なことは如何よ うなことでしょうか」という程のことである。ところが、こう問われて趙州和尚 まるで木に竹ついだように、「汝 名は什んぞ」「お主の名前は何というか」と 聞きかえした。これに対して問話の僧、「はい、私は○○と申します」と答えた 。そしたら趙州、「含元殿裏、金谷園中」と示されたというが、これはいったい どういう肚なのであろうか。

「含元殿裏」とは「含元殿裏に長安を問う」を略したもので、ちなみに含元 殿とは長安城の中心に在る殿堂のことじゃ。従ってこれは「長安の都の真中に居 て長安の都はどこじゃ」と問い、「東京駅に居て東京はどこですかと問うような ものじゃ」ということである。次の「金谷園中」も同様で「古都、洛陽の名園の 中に居て洛陽はどこか」と問うということである。「如何なるか是れ仏法の大意 ?」という問いに対し、趙州はお主の問いは「含元殿裏に在って長安はどこかと 問い、金谷園中に在って洛陽はどこかと尋ねるも同然だ」と、からかったのであ る。 そして此の答所は、僧の問いに対して、まことに適切に答えているのであ る。

およそ「仏法の大意」即ち禅の修行の第一の目標は、坐禅して見性成仏をは かること、自己即仏であることを体得することにある。ところで先刻も皆で唱え た白隠和尚の『坐禅和讃』に【衆生 本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて 氷無く 衆生のほかに仏無し】とあるように、自己と仏とは不離なもので別なも のではない。仏はこの五尺の肉体を離れて別に何処かに在るのではない。それな のに修行者はともすると、自己、本来仏であることを忘れて、仏を他処に向って 「仏やーい」と求めがちである。それはまさに、「含元殿裏に在て長安を問い、 金谷園中に居って洛陽を尋ねる」愚を犯すものだというのが、趙州の肚である。 すでに見性のいけたものなら、自らの体験に省みて、趙州和尚のこの答えが、い かに適切であり、親切なものであるかがよく分るであろう。『禅林句集』に【騎 牛覓牛ーー牛に騎って牛を覓む】とか、【丙丁童子来求火ーー丙丁童子即ち火の 神様が来って火を求む】という句が見えるが、それらも同様の愚をいましめたも のである。まだ初関を透らず、見性しておらん若い者には、まことに打ってつけ の教訓となる一則である。よく味わって、正しい修行態度を確立しなされ。外に 向って求めず、内に向って求めよ。

(19) 僧 趙州に問う、如何なるか是れ道? 州云く、墻外底。僧云く、 這箇を問わず。州云く、なんの道をか問う? 僧云く、大道。州云く、大道 長 安に通ず。

前の則で、禅問答で最も多い問いの一つは「如何なるか是れ道」だといった が、或る時、一人の僧がまさにその問いをかついで趙州の前に出て来た。そした ら趙州いともあっさりと「墻外底」「ウン、道か、道なら垣根の外に在るわい」 と答えられた。この僧、「平常心是れ道」とでも返ってくるかと思っていただけ に、これには少々面くらって、「這箇を問わず」「私がお尋ねしているのは、そ のような門前の道のことじゃ御座いません」と口をとがらして言った。これを聞 いて趙州「汝 什んの道をか問う」「それじゃ、お主、何の道を問うておるのじ ゃ」と意地悪く念を押した。すると、この僧「大道」「人間の践み行なうべき道 、仏教の説く大道とは如何なるものか、それをお尋ねしているのです」と応じた 。そしてこれに対して趙州何と答えるかと思ったら、無造作に「大道 長安に通 ず」という答えが返って来た。「如何なるか是れ道?」という問いに対して「墻 外底」といい、「大道 長安に通ず」と答えた、趙州和尚の肚を見よというのが 、この一則の眼目であるが、諸士は下読みの時、そこをどう工夫しておいたか。

この僧、人間の践み行なうべき大道というものは何か高尚幽玄な特別なもの 、儒教のいわゆる仁義礼智信などのように鹿爪らしいものとの先入見を抱いてい たらしい。現代のお主らの中にも、これと似た考えを持っているものが少なくな いようじゃ。趙州和尚、一見便見でこの僧の境涯を見ほして、その誤りを是正し てやろうと先ず「墻外底」と答えたのじゃ。垣根の外の小径も道であるように、 日常茶飯の些事をも在るべきように立派に捌いていく、これが道だと教示したの である。それなのに、この僧一向にわからないので、更に「大道 長安に通ず」 と端的に示したのである。およそ「大道 長安に通ず」とは、天下の道は大小色 々あるが、門前の径もどの道も究極は都長安に通じているということである。丁 度そのように、お主らの日常茶飯の営み、一挙手一投足みな悟りの都、菩提に通 じているぞ、油断するなよ! 特別殊勝げな事だけが道ではないぞ、と注意を与 えたのである。くどくなるので、この辺で次に移るとしよう。

(20) 僧 趙州に問う。狗子に還って仏性有りや、也た無しや? 州云く 、家々の門前 長安に通ず。


或る僧の「狗子に還って仏性有りや、也た無しや」という問いに対し、趙州 が「無」と応えた世にいう『趙州無字』の公案は、先きに(1)で見たところで ある。ところで、同じ問いに対して、趙州ここでは「無」とも「有」ともいわず 、「家々の門前長安に通ず」と応えてすまして御座るが、これはいったいどうい う肚であろうか。

「家々の門前 長安に通ず」とは、前則における「墻外底」と「大道 長安に通 ず」とを一つにまとめたような文句で、「どの家の門前の小径もみな長安に通じ ている」ということである。「どの家の門前の小径もみな都長安の都に通じてい るように、万物の性はみな宇宙の大生命・如に通じており、それの現われでない ものは無い」というのが趙州の肚だ、と解してよいであろう。しかし、それでは 余りにも説きすぎて面白くないというなら、【箇々 無ャの長者子】と著語して おこう。『趙州無字』の公案を既に透過したもの、とりわけ旧参底はこの句をた よりに、趙州の肚をよく味わってみるがよい。

(21) 厳陽尊者 趙州に問うて云く、一物不将来の時如何? 州云く、放 下着。厳云く、一物既に不将来、箇のなにをか放下せん。州云く、いんもならば 則ち担取し去れ。厳 言下に大悟す。


 此の則、『趙州録』には【僧問う、一物不将来の時如何。師云く、放下着】 とあるにすぎないが、それでは此の則の滋味が通じにくいので、『景徳伝燈録』 の「厳陽尊者の章」を引用してここに掲げておいた。

ちなみに厳陽尊者は法諱を善信といい、法を趙州に嗣ぎ、厳陽山(江西省南昌 府)中の新興院に住して活躍し、名声を博した僧で、一般に厳陽尊者とあがめら れた。本則はその厳陽善信が趙州和尚の悪辣な扱いによって大悟した因縁で、『 従容録』の第五十七則にも採られている有名な公案である。その厳陽、趙州の会 下に永年修行した甲斐があって、六祖慧能のいわゆる「本来無一物」の境涯とは こういうものかと、自ら納得出来る悟境に達した。そこで得々と趙州に向って「 一物不将来の時如何」という問いを提起した。

「一物不将来」とは、「一物も将ち来らず」ということで、迷いはもとより悟 りをもきれいに捨て去り、本当の無一物になりきった境涯の謂いである。従って 「一物不将来の時如何」というのは、「私はお蔭様で今や無一物の境涯に到達致 しました。此上はどう身を処したら宜しいでしょうか」という程の意味である。 これを聞いて趙州、「それは結構だ、目出度いことじゃ」とでもいうかと思いき や、いきなり「放下着」と突きはなした。「放下着」の「着」の一字は、「惺々 着」のそれと同じく、「……せよ」という命令の意をあらわす添字であり、「放 下着」とは「放下せよ。捨ててしまえ!」という意味である。しかし、ここで趙 州はどこを看て「放下着」と言ったのであろうか。「お主らの工夫に待つ」と、 儂も突きはなしたいところだが、敢えて第二義底に成りさがって解説すれば、次 のようなことになろうか。
 
  趙州和尚「一物不将来の時如何」と出て来た厳陽を一見して、「こやつ、 まだ無一物になったことを意識しておるわい。その限り、本当の無一物ではない 。又、無一物になったということを、他にひけらかしている所がある。僅かなが ら無一物の臭みが残り、それへの執着が見える」と看破して、それでは本当の一 物不将来ではないというので、大慈悲から「放下着」と喝破されたのである。し かし、この時の厳陽には親切極まる和尚の肚が飲みこめなかったから「一物既に 不将来、箇の什ゥをか放下せん」「私はつい今さっき申しました通り、すでに迷 いも悟りも全て放下して無一物であります。和尚から放下してしまえと御注意を 受けましたが、私にはもう捨てるべき物はもう何も御座いません。此上、何を捨 てろとおっしゃるのですか」と理屈をこねて突っかかって来た。若い時はこうし たものじゃ。儂もかつてはそうじゃった……。そうしたら「州云く、恁ゥならば 則ち担取し去れ」「そうか、それならば重くて肩も凝ろうが、どっさり背負って いくがよい」と、突きはなされた。この逆説法の「担取し去れ」の一語に触れて 厳陽、思わず言下に大悟したというが、どう大悟したのか。これこそ旧参底の者 はよーく工夫しておけ。

  粗放な墨筆で竹箒を描いて、それに【掃ふべき埃も無しといふ奴を 拂はん とする箒なりけり】と賛したお軸をどこかで拝見したことがある。ここに【拂べ き埃も無しといふ奴】とは、まさに一物不将来を意識し、それをひけらかしてい る厳陽であり、「放下着」といい「担取去」という趙州の二語は、此の竹箒其物 だといってよいだろう。なお、もう少し言葉を添えておこう。

  日本曹洞宗の宗祖、道元禅師は「道人は須らく身心脱落、脱落身心たるべ し」と示しておられる。ここにいう「身心脱落」とは、迷悟の一切を放下し、一 切の束縛から脱却すること、いわゆる解脱することじゃ。しかし、仏道の修行は 解脱で終るのではない。解脱すると今度は自分は無一物になった、解脱したとい うホンの僅かながらの意識が残る。その解脱から更に解脱すること、それが「脱 落身心」である。本則はまさにその【身心脱落 脱落身心】の消息を識得する恰 好の一則である。この一則を本当によく味わい我がものとして、【物持たぬ袂は 軽し夕涼み】と遊戯したいものである。

(22) 僧云く、久しく趙州の石橋 と嚮う、到来すれば只だ掠しゃく(彳 +勺)子を見るのみ。州云く、汝 只だ掠しゃく(彳+勺)子を見て、趙州の石 橋を見ず。僧云く、如何なるか是れ石橋? 州云く、驢を渡し馬を渡す。


  本則を講ずるに先立って、文字の意味を説明しておこう。流布本には「石 橋と響く」とあり、「その名が聞こえている。有名である」という意味にとられ ているが、禅文学研究家の入矢義高氏は、ここは「響」ではなく「嚮」であり、 「慕いあこがれる」という意味だと主張しておられる。成程そうだと思うので、 それに従うことにした。「石橋」は「せっきょう」と読まず「しゃくきょう」と 読むならわしになっており、趙州城郊外にある趙州の石橋は、天台の石橋・南嶽 の石橋と共に、古来、天下の三大石橋と称されて有名であった。又「掠しゃく子 」とあるが、これはいわゆる丸木橋のことである。

 或る時、一人の坊さんが身の程も知らず、天下の大和尚老趙州に向って、「 久しく趙州の石橋と嚮う。到来すれば、只だ掠q子を見るのみ」とチョッカイを 掛けて来た。表面の意味は、「趙州の石橋は天下の三大石橋の一つだと有名なの で、前々から是非一度は見たいものだとあこがれていた。しかし実際に来てみれ ば、何のこったい、丸木橋同然の貧弱な橋にすぎんではないか」ということであ る。これは、石橋にことよせて、
 趙州和尚こそは、天下の大和尚だと長年慕いあこがれていたが、実際にお目 にかかって  見れば、なーんだ、平凡極まる只だの皺くちゃ爺さんにすぎぬじ ゃないか。【来て見れ   ばさほどでもなし富士の山】じゃわい。

と、よく有る問答の型のままに、趙州をからかったのである。これに対して 趙州些しも騒がず「汝 只だ掠しゃく子を見て、趙州の石橋を見ず」と、これ亦 問答の型通りに応じた。表面の意味は「お主の目玉が豆粒のように小さく、その 視野が狭く、その識見が低いものだから、この大きな石橋が目に入らず、丸木橋 にしか見えぬのじゃ」ということである。西洋の諺に【奴隷の眼中に英雄無し】 というのがあるが、実際、人間は自分の教養や見識の程度にしか他人の偉さや大 きさが見えないものです。「お主の境涯が低いものだから、本当の趙州が拝めな いのじゃ」ということを裏にこめていることは、諸士にも察しがつくだろう。

  趙州から「汝 只だ掠しゃく子を見て、趙州の石橋を見ず」とピシャリとた しなめられて、この僧「如何なるか是れ石橋?」と問わされる破目になった。こ う問わせておいて、趙州やおら「驢を渡し馬を渡す」と、すまして応えられた。 まさに「口唇皮子上に光を放つ」と称された老趙州の面目躍如たる扱いで、全く 脱帽するほかはない。それにしても「渡驢渡馬」とは、どういうことであろうか 。

この「驢を渡し、馬を渡す」という一語は、「お主、趙州の石橋の真面目を 拝みたいというか、それならトックリ拝ませてやろう」という肚から、些しもた くまずコロコロと流れ出て来たもので、それを敢えて敷衍すれば
  石橋の実際を見て御覧! 橋は往来する者を選り好みせず、王侯貴人であ ろうと乞食泥  棒であろうと、こやし桶を載せた車であれ、馬であろうと驢馬 であろうと、何でも渡し ている。 汚され踏みつけられながらも不平も言わず、 「縁の下の力持ち」然と黙って
皆を渡 している。お主のような未熟な坊主も渡してござる。

というようなことにもなろうか。しかも趙州はこの話に託して、本当の宗教家 、生き仏の相と用とを暗に説いているのである。
頼まれもしないのに自分から身を挺して橋や船となり、踏みつけられたり汚さ れたりしながらも些しも気にかけず、一切の衆生を迷いの此岸から悟りの彼岸へ 渡そうとするお節介焼き、それこそが本当の宗教家である。骨折り損のくたびれ もうけと百も承知の上で、縁の下の力持ちをケロリカンとして行じていく、それ が真の生き仏というものである。「驢を渡し馬を渡す」という、このさりげない 一語に合掌し、それを通じて真の宗教家の相、更には趙州従K大和尚の真面目の 一端をも拝みえたら、「わしの境涯も少しは向上した」と自惚れてよかろう。ど うじゃ、拝めましたかな。


(23) 僧 趙州に問う、至道無難、唯嫌揀擇。如何なるか是れ不揀擇?  州云く、天上天下唯我独尊。僧云く、此れは猶お是れ揀擇。州云く、田庫奴!  いずれの処か是れ揀擇? 僧、無語。

本則は『碧巌録』の第五十七則に採られておるもので、既に二回も講じたこ とがあるので、ザーッと講ずるつもりだったが、この席には若い者も多いので、 まあ一通り講ずることにしよう。なお、『趙州録』の文章は少々ちがうが、『碧 巌録』のそれの方が分りよいので、それにしておく。
本則の主題の「至道無難 唯嫌揀擇 纔無憎愛 洞然明白」は、いうまでもなく 三祖僧さんの著『信心銘』の冒頭の四句である。そしてその大意は、
 人間の践み行うべき至極の大道というものは、下手に揀擇すなわち選り好み して小細工
したり、憎愛の念を抱いて執着したりさえしなければ、決して難しいものでは なく、
カラリーッとして極めて明白なものである。

ということである。確かにその通りだが、問題は先ず「至道」の端的をわがも のとすることである。肚の掃除をして真空無相の実境涯を身につけることである が、その為には実際に「至道無難」の則に参じて、これを透過する以外に術はな いから、この句の解説はこれで打ちきっておく。
それはそうと一人の僧が、この「至道無難 唯嫌揀擇」をかつぎ出して、趙州 に向って「如何なるか是れ不揀擇?」「揀擇しないとはどういうことでしょうか ? どうしたら不揀擇の処が手に入るでしょうか?」と尋ねた。これは誰しも聞 きたい、一応尤もな問いである。そしたら趙州、「天上天下唯我独尊」とこれに 応じた。この語は一般には、釈尊が誕生するとすぐ周行七歩して、一指は天を、 一指は地を指して宣された語として知られている。どうでもよい事ともいえるが 、これは事実ではない。釈尊が開悟成道して鹿野苑の大説法会に赴く途中で、一 人の外道に「どんな悟りを得られたか」と訊かれた時の答えだ、というのが事実 である。しかし、こうした事実の吟味や、「天上天下唯我独尊」の真意の吟味は 今は暫く棚上げにしておこう。ここで肝心なことは、「如何なるか是れ不揀擇? 」という僧の問いに対して、趙州はどこをにらんで「天上天下……」と答えたの かということである。洞然の私見を敢えて披瀝して、旧参の上士更には天下の識 者のご批判を仰ぐことにしよう。といって、その私見それほど力むほどのもので もない。
お主、不揀擇とは如何なる処か、それを知りたい、そこに到りたいというか。 それなら教 えてやろう。不揀択の処とは肚に一物もない真空無相な場であり、 真空無相の場とは天上天 下唯我独尊と嘯ぶく境涯である。だから、不揀擇の場 に到りたいというなら、何よりも天 上天下唯我独尊と、淡々と嘯きうる境涯を 我がものとしなされ。

これが趙州がここで「天上天下……」と言った肚だと私は見ている。ここでい う「天上天下唯我独尊」は、開悟したばかりの連中のうそぶくあれではなく、釈 尊が「我れ法王となって法に於いて自在なり」と自負した「法王」、趙州が「他 は十二時に使われ、我は十二時を使う」といった万物の主人公の境涯である。ま さに独脱無依の自由人、真空無相の布袋和尚の境涯である。すでにこの境涯に到 れば、今更、特に嫌悪すべきものもなく、又、愛着すべきものとても無い筈であ る。そしてこの真空無相のきれいな肚から、美しいものは美しい、醜いものは醜 いと見、うまい物はうまい、まずい物はまずいと味わって、しかもそれに執着す ることなく、文字通り【聖朝に棄物無し】【一法の嫌うべき底無し】と生きるこ と、それこそが「至道無難 唯嫌揀擇 纔無憎愛 洞然明白」の真義であるのじゃ 。

この僧、趙州の「天上天下唯我独尊」の一語に触れてハッと気づき、礼拝出 来れば一人前であったが、まだ未熟であった。実はこの僧、最初から生意気にも 和尚にかみついてやろうという下心があったのである。『趙州録』にも『碧巌録 』にも出ているが、趙州これより先き、会下の大衆に対して「至道無難 唯嫌揀 擇 纔かに語言有れば 是れ揀擇というものじゃ」と示されたことがあった。この 僧、この示衆を種にして、和尚に「至道無難……」を尋ね、和尚が一言半句、ウ ンとでもスンとでも言ったら「和尚、それは揀擇というものじゃありませんか。 和尚の先きの示衆と撞着しますぞ」と突っかかり、和尚をとっちめてやろうと前 から計画していたのである。そして和尚が「天上天下唯我独尊」と語言にわたっ たものだから、この僧、趙州の折角のお示しの肚が分らず、しめたとばかり「此 は猶お是れ揀擇」と得意になって吐かした。全く生兵法の青坊主だ。果然、趙州 、「田庫奴! なんの処か是れ揀擇?」「この馬鹿者! 儂のどこがいったい揀 擇じゃ」と怖しい権幕である。しかし、この「田庫奴!」を単に叱責の語と受け とったのでは、見方が浅い。ここで「至道無難・・・」の実際の発現を拝んでこ そ、趙州和尚に本当に相見できたというものである。〔老師、一座を見わたして 〕どうじゃ、拝めたか? 更に参ぜよ、三十年! 今晩はここまで。


(24) 趙州 二新到に問う、上座 曾て此間に到るや否や? 云く、曾 て到らず。州云く、喫茶去。又、那の一人に問う、曾て此間に到るや否や? 云 く、曾て到る。州云く、喫茶去。院主問う、和尚、曾て到らず、彼をして喫茶し 去らしむるは且らく置く。曾て到る、什ゥとしてか彼をして喫茶し去らしむ?  州云く、院主よ。院主応諾す。州云く、喫茶去。


これが古来有名な『趙州喫茶去』の一則である。しかし有名な割合には、殆ん どその宗旨が明らかにされておらないので、提唱というよりは調べるという態度 で私釈を披露し、将来の研究の捨石にしたいと思う。先ず文字の意味から調べて 行こう。「新到」とは新参や新入りというも同じで、新たに禅寺に掛塔した僧の ことであり、「上座」とは僧の尊称であるし、「此間」とはここ、この寺という 程の意味である。「院主」とは、寺院の事務や経済面の一切を主宰する僧のこと で、監院や監寺ともよばれる。事務多端のため修行の方がとかくおろそかになり 、それだけに道眼・道力がやや劣るのがならいであり、ここに登場する院主も亦 その類である。次にこの則で一番の問題は「喫茶去」の意味である。従来、この 語はあっさりと「お茶をおあがり、お茶でもおあがり」という意味に解されて来 ているが、これに対して古賀英彦氏編著の『禅語辞典』は
  茶を飲んでこい。お茶を飲みに行け。茶堂(茶寮)へ行って茶を飲んでか ら出直してこ いという意。「まあ、お茶を一杯お上り」(且坐喫茶)という意 味ではない。
と新説を出しておる。しかし、こう解釈すると、この『趙州喫茶去』の一則の 宗旨がいよいよ分らなくなる。厳密に語学上からいえば古賀氏の説の通りかも知 れないが、この「去」を例えば『洗鉢盂去』の「去」と同じように、単に軽い命 令の意味を表わす助字と見て、矢張り従来通り「お茶をお上り」の意味に私は解 しておきたいと考えている。さて以上の事を念頭において、本則をたどって見よ う。

趙州和尚の観音院に新到が二人やって来て趙州に相見した。そこで趙州がその 一人に「上座よ、お主は以前にこの観音院に来たことがあるかね」と尋ねたら、 その僧「今回が初めてです」という返事。趙州これを聞いて「お茶をお上り」と 応じ、次に別な僧にも同じことを尋ねた。そしたらこの僧「曾て到る」「前に参 ったことが有りますよ」という答え。趙州この答えに接し同じく「お茶をお上り 」と拶せられた。丁度その時、事務主管の院主も何かの用でその相見の席に居っ たと見える。趙州がどういう肚から同じく「喫茶去」と言ったかが分らず、
全くの新到に「お茶をお上り」とお茶を飲ませるのは未だ分りますが、前に 来たことの有る僧をも同じように扱われるのは、拙僧にはいささか解しかねます 。
と口をはさんだ。すると趙州和尚何思ったか、「院主さんや」と喚びかけられ た。そこで院主「はい」と返事すると、その途端に「あんたもお茶をお上り」と サラリと応じたという。これが『趙州喫茶去』の経緯であるが、趙州がそれぞれ 修行歴のちがう三者に対し同じように「喫茶去」と言ったのはどういう肚からで あろうか、これがこの則の工夫すべき眼目である。列座の諸士はそこをどう工夫 して、この講座に臨まれたか? それには色々な解釈があるようである。

その一つはこうじゃ。【日常茶飯事】という言葉があるが、茶を喫すること は飯を食うこととならんで、最も日常的で平凡なことである。しかし、この日常 底を離れて別に修行は無い、それは修行歴の長短や境涯の高低に関係なく万人に 通ずるものである。その事に気づかせようというのが、趙州が三者に同じように 「喫茶去」と言った肚だとみるのが、一つの解釈である。そして趙州が「お茶を お上り」といって差出したお茶の頂きようで、その僧の境涯を見ようとしたとも 解釈される。諸士だったらどう頂くか? お茶の作法を心得ていたら、その作法 にしたがって和尚の好意を有難く頂戴すればよい。もし作法を心得ていなければ 、下手に辞退したり堅くならず、感謝の心をこめて有難く頂き、「おいしうござ いました」と一言挨拶出来たら、まあ一応合格じゃ。次ぎに第二の解釈として私 見を披瀝しておこう。
前の(13)の『鉢盂を洗い去れ』の則を想い起して御覧。あの則で趙州が相 見に出て来た僧に「喫粥了や未だしや」と問うたが、これは単に「飯を食べてき たか」を問うたのではなく、裏に「お主、悟りを開いて来たのかどうか」という 意味をこめているのだということを注意しておいた筈。丁度それと同じように「 汝 曾て此間に到るや」は、「前にここに来たことが有るか」というその裏に、 「お主は禅の初関を透過して来ているのか、どうじゃ。禅の初関を透らぬうちは 門外漢であり、わが門内の人、此間に入った人とはいえぬが、その点どうじゃ」 という問いを含ませているのである。「此間に到る」を私はこういう意味に深め て解釈しておきたい。そして又、「喫茶去」と、お茶を差出して「サァお上り」 というのは、単にそれだけのことではなく「お茶を喫するそやつ、何物ぞ」と注 意しているのである。その辺のことは、ほう居士と馬祖との例の『一口に吸尽す 、西江の水』の則(『瓦筌集』第52)あたりを見たものなら、成程と肯けよう 。

従って最初の「曾て此間に到らざる」僧は未だ見性入理の初関を透らない僧で あり、趙州は「茶を喫する底のそやつ、何者ぞ」と注意しているのである。次に 「曾て到る」の僧は、一応見性入理の関門を透り、悟後の修行に努めている僧で あり、趙州「茶を喫するお主と同行二人底のそやつを、いよいよ健全に育てなさ れ」という肚を、「喫茶去」の三字に託したのである。そして最後の院主に対す る「喫茶去」は、「院主さんや、お主は修行歴は随分長いが、お主の本来の面目 はどうも寝呆けているようじゃ、儂のお茶でも飲んで、はっきりと目をさまさせ なされ」という位の皮肉をこめたものと見たら、趙州の肚にかなうのでなかろう か。
なお、この席には【金牛和尚、斎時に到る毎に、自ら飯桶を持って僧堂の前に 於いて舞を作し、呵々大笑して云く、菩薩子! 喫飯来!】という有名な『金牛 作舞』の則をすでに透過した者もあろうが、金牛のこの「喫飯来」と趙州の「喫 茶去」と、その肚は是れ同か別か、大いに工夫してみるがよろしい。

(25)趙州 僧に問う、堂中に還って祖師有りや、也た無しや? 僧云く、 有り! 州云く、喚び来れ! 老僧がために洗脚せしめん。


趙州和尚、或る時、講座台上から列座の大衆に向って、「堂中に還って祖師 有りや、也た無しや?」と喚びかけた。「祖師」とは、一般には、一宗一派を開 いた人即ち開祖とか宗祖とかのことである。しかし禅では「祖師再来の意」で察 せられるように、中国禅宗の初祖達磨大師を指すことになっておる。従って、趙 州のこの大衆への問いは、「この中に達磨は居るか、居らぬか」ということだが 、無論、歴史上の達磨大師の存否を問うているのではない。「我こそは達磨の再 来じゃと、自信をもって言いうるもの有りや?」ということである。そうしたら 気のきいた僧がおって、「ハーイ、ござります」と元気のよい返事である。そし たら趙州和尚「喚び来れ! 老僧がために洗脚せしめん」「そうか居るか、居る ならその達磨を儂の面前に喚んで来い。儂の脚を洗わせてやろう」と大変な権幕 である。といって、これは何も理由も無しに、大見得切って威張っているのでは ない。

これにつけて思い出されるのは、『碧巌録』第1則、達磨大師の『廓然無聖 』の則に添えた頌の末尾で、雪竇重顕が「左右を顧視して」「這裏 還って祖師 有りや?(自ら云く)有り、喚び来れ 老僧がために洗脚せしめん」と、趙州の 語をそのまま我がものとして引いて、その頌を結んでいることである。趙州は無 論のこと雪竇は夜郎自大で大言壮語しているのではない。いやしくも本当に悟っ た禅者ならば【前に釈迦無く、後えに弥勒無し】といい、【威は毘廬の頂上を踏 む】という見識と気概とを持ておるべきであり、趙州も雪竇もここに毅然として 立っているのである。お互いもまたこれだけの見識と自信とを持っていなければ ならない。趙州和尚が「喚び来れ! 老僧がために洗脚せしめん」と大見得を切 ったその場に、もし儂が居合わしたとしたら、ズズズーッと和尚の前に進み出て 、「サァ、洗って差上げましょう」と、持って行った盥の水をザブリと和尚の頭 からぶっかけてやるだろう。そしたら和尚も「我が意を得たり」と呵々大笑なさ れることであろう。〔老師呵々大笑して下座なさる〕

(26) 趙州 行脚の時、一尊宿の院に到り、纔かに門に入り相見して便 ち云く、在りや、在りや?と。尊宿 拳頭を竪起す。州 水浅うして是れ船を泊 むる処に非ずと、云って便ち出て去る。又、一院に到り、尊宿に見え便ち云く、 在りや、在りやと。尊宿も亦た拳頭を竪起す。州 能縦能奪、能殺能活と云って 便ち作礼す。


これはわが教団においては『竪起拳頭』と題して『瓦筌集』の第67則に収 録し、初心者に必ず見せることにしている公案の一つである。すでに公案である から余りくどくならず、見解に触れない程度で、この則の工夫の眼目だけを説い ておこう。既にこの則を見た者も相当居る筈だが、この提唱を聴いてよく反芻し 玩味するがよい。
趙州和尚は80歳まで諸方を行脚し、それから120歳まで化を挙げたとい われているが、その行脚の時、一尊宿の住持している寺院を訪れた。そして門に 入り尊宿にお目にかかるとすぐ、彼がそこに坐っておるのを現に見ておりながら 「在りや、在りや」「主人公が健在でござるかな」と問いかけた。すると、その 尊宿黙って「拳頭を竪起」、拳 をスーッと空っ立てたというが、これはいった いどういう肚であろうか。この竪起した拳、これ何の消息か、これ白隠和尚の『 隻手音声』と同か別か?これを見て趙州「水浅うして是れ船を泊むる処にあらず 」と言って、そのまま院から出て行ってしまったというが、これ亦たどういう肚 からであろうか。この「水浅うして是れ船を泊むる処にあらず」とは、「お主の 見所ないし境涯は浅薄であって、儂が脚を止めるには不足じゃ」と非難したよう にもとれるが、そう見るのは大変な見損いである。この尊者の拳を竪起した場は 、天魔外道はもとより、仏祖と雖も覗き見も出来ない処じゃ。〔老師、笏をズイ と拈じ出される〕。だから、流石の趙州も「オーッ、怖や、怖や」と、その場を 出て行ったのである。

趙州は其後また別な一院を訪れ、前と同じように「在りや、在りや」と尋ね たら、ここの「尊宿も亦た拳頭を竪起」した。すると趙州、前の場合とは全く違 い、「能縦能奪、能殺能活と云って便ち作礼」したというのである。「能くゆる し、能く奪い、能く殺し、能く活かすで、与奪縦横・殺活自在でまことに見事な 働きじゃ」と讃嘆し、うやうやしく礼拝したというのであるが、第二の尊宿は拳 をいったいどのように竪起したのであろうか。ここが本則の工夫のしどころであ る。これ以上は、実際にこの公案に参じ、透過して納得するほかははいが、眉鬚 堕落を恐れず敢えてその法理を説けば、前者は文殊菩薩が金剛王宝劍を按じ黒獅 子に騎って登場した場合、いわば把住・殺人劍の場である。これに対して後者の 竪起拳頭は、差別の妙智の普賢菩薩が白象に騎って悠然と出現ましました場、い わゆる放行・活人劍の場である。しかも、この両者のはたらきを一人格の内に統 合し、それが臨機応変に流露してこそ、まことの禅者というものである。諸士も そこを目ざして修行に更にはげむように。

(27)僧 趙州の真を写して州に呈す。州云く、若し老僧に似ば、即ち我を 打殺せよ。若し似ずんば、即ち焼却せよ。僧 対無し。玄覚代って云く、留取し て供養せんと。


「僧 趙州の真を写して州に呈す」とあるが、「真を写す」とは、絵師に依頼 して肖像画を描かせることである。唐代の仏教界とりわけ禅僧社会では、絵師に 頼んで師匠の肖像画、いわゆる頂相を描かせて、これを師匠に呈し、これに師匠 の自賛の偈や法語を揮毫してもらい、これを嗣法の証拠として珍重する風習が行 われていた。余談になるが、この風習は宋代から元代に入って愈々盛んになり、 禅宗の伝来と共にわが国にも伝わって、頂相制作が流行し、その遺作が多く現存 している。それはさておき、この頂相の流行と、それをもって伝法や嗣法の証拠 とすることに対し、趙州は、日頃、不快の思いを抱いていたものと思われる。 

趙州のそうした思いを知ってか知らずにか、弟子の一人の僧が趙州和尚の肖 像画を描かせて彼の御覧に入れ、「何卒、自賛の偈を図上に揮毫して頂きたい」 と願い出た。すると趙州、ジロリとその僧を見た上で、
この肖像画が、もし儂にソックリ似ているというならば、この肖像画に参禅し たらよかろ う。とすれば、この儂はもう無用の存在ということになるから、儂 を打殺したらよかろう。 又もし似ていないというならば、そんな肖像画、屁の 役にも立たない、サッサと焼いてし まえ!

と、いつになくはげしい口調で言われた。相当な皮肉と諷刺のこめられた言 葉で、まことに思わず鳥肌のたつ思いを禁じえない。こういわれて、「僧 対無 し」で、この僧、一言も返答が出来ず、黙って退くほかはなかったという。そこ で玄覚という僧が、「儂がその場に居合わせたら、焼くのは勿体ない。大事に保 存して、和尚の帰寂後、これに供養しましょう、と言ったものを」と言っておる 。これは「無語」よりは些しはましだが、趙州はこれを肯うまい。
ともあれ、禅の真理は単なる抽象的な真理ではない。生きた人間に荷担され 、その人格ないし個性を通じて発露する真理である。趙州の禅は従ねんいう人間 、切れば血の出る生きた彼の肉体を離れて別に存在するものではない。ところで 肖像画はいかに精巧に描かれても、それはついに肖像画にすぎず、生きて働く本 人と較べれば、二束三文の値打ちもない。

なお、ここで肖像画というものについて、一言触れておきたい。肖像画とい うものは、一般には顔貌や外見が像主に似ているのをもってよしとされるが、そ れだけでは上乗の肖像画ではない。像主の性格や境涯などの内面の真実をよく表 現し、【これはよく似た、本人よりもよく似た】といわれてこそ、本当の肖像画 の名に値いするのである。しかもそれほどの上乗の肖像画でも、それはついに飯 も食わず糞も垂れない単なる肖像画にすぎない。そしてその点は、今日の写真は いう迄もなく、著書や録音テープもまた同じである。趙州の禅は、趙州の生きた 人格を離れて別にないように、洞然の禅は煩悩具足のこの洞然の肉体を離れては ない。しかもその肉体、あと何年もつか、そう長いものではない。諸士がこの事 を深く肝に銘じ、一期一会の思いを新たにして修行に励むように、呉々も望んで おく。

(28)劉相公  院に入って、趙州の地を掃くを見て問う、大善知識 什も としてか却って塵を掃く? 州云く、外より来ればなり。


劉相公、劉某 という大臣但し伝記は不明――が趙州の観音院を訪ねて来た。 すると趙州が自ら境内の庭掃除をやっていた。これを見て、その大臣が「大善知 識 什ゥとしてか却って塵を掃く?」「老師のような大善知識が、どうして庭掃 除をなされるのですか」と問うた。この問い、表面上は、「庭掃除などの作務は 、会下の大衆がするものとばかり思っておりましたのに、和尚ほどのお偉い方が 自らなさるとは恐れ入りました」と、敬服するような口吻を示しながら、その裏 には
  和尚のような大善知識には、もはや拂うべき塵・煩悩などは一片も無いも のとばかり思 っておりましたのに、未だ掃き捨てるべき塵があったのですか。 これは見そこないました 。
という皮肉なチョッカイがこめられているのである。これに対して趙州何と答 えるかと思いきや、この大臣の肚を即座に看破して、「外より来ればなり」「外 から飛んでくるんでのう。お主のような奴が外から舞いこんで来るからさ」とサ ラリと応じてすましてござったという。口唇皮子上に光を放つ、と称された趙州 の真面目のよく出ている挨拶で、全く脱帽のほかはない。但し、これを単に口達 者と見たら大間違い。肚の掃除が行き届いていて、肚に一物も無いから、こうい うすばらしい応答がスラリと出てくるのである。 次にこの扱いとよく似た一則 を挙げておこう。

(29) 崔郎中 、趙州に問う、大善知識、還って地獄に入るや、也た無し や? 州云く、老僧 末上 に入る。崔云く、既に是れ大善知識、什んとしてか 地獄に入る? 州云く、老僧若し入らずんば、争でか郎中に見ゆることを得んや 。(阿誰か汝を教化せん)


本則の宗旨を説くに先立って、文字の意味を明らかにしておこう。先づ崔郎 中について。唐の中央官庁の中でも一段と大きな権限をもっていたのは、詔勅の 事を司る尚書省で、その尚書省に局に当るものが二十四あって、その局長を郎中 と称した。ここに出てくる「崔郎中」というのは、崔という姓をもつその郎中の ことで、日本でいえば斎藤局長とかいうような役人のことで、この人物、趙州の 会下にあって彼に参じていた。但しその境涯はまだ低いものであったようである 。次に、「大善知識」とは、前の則にもあったが、要は人間の迷いの根本である 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒を超克し、それらに動かされることのない人物、いわば 大修行底の人、仏祖の境涯に体達した禅者のことである。

或る時、趙州の会下にあった崔某という役人が、師の趙州に向って、「大善 知識、還って地獄に入るや、也た無しや?」と問うた。「既に貪・瞋・痴の三毒 を超克した大修行底の人は、いったい地獄に堕ちるものでしょうか、どうでしょ うか」と問うた。崔郎中、内心では、「堕ちない!」という返答を豫期していた のである。ここで「地獄」ないし「六道」というものについて、法話めくが解説 しておこう。
 人間をはじめ動物には、その根源的な性として貪欲がある。飯をいくら食っ ても食いたりない、金をいくら貯めてもまだ欲しい‥‥、しかもそれを独り占め にして他にやるまいとする性のことで、この貪欲に引きずり引んまわされている 境涯、それを餓鬼というのである。又、人間には勿論、犬や猫にも自らの財産や 権限を犯すものに対して猛然といかり、憎みこれと争う心が有る。これを瞋恚と いうが、この瞋恚に身心を焼いている境涯を修羅というのである。次に愚痴(癡 )とは「無明」と同じで、人間でありながら、人間として践み行うべき道や道理 を知らず、牛馬や犬猫と変らず本能のおもむくままに行動することで、この愚痴 に引きずりまわされている境涯、それを畜生というのである。そしてこの貪欲・ 瞋恚・愚痴の三毒が一度に燃えあがっている状態、餓鬼・修羅・畜生の境涯に一 度に堕ちこんでいる境涯、それを地獄というのである。地獄は決して死後の世界 にあるのでもなく、地底深くに存在するのでもない。まあ、それはそうとして本 筋に戻ろう。

大善知識とは、先にも説いたように、貪・瞋・痴の三毒を超克し、それに動 かされることのない人物のことなのだから、その大善知識・大修行底の人は、勿 論、地獄に堕ちる筈は無いという肚で、この崔郎中「大善知識、還って地獄に入 るや、也た無しや」と、問うたのである。ところが、どうだ、趙州から「老僧 末上に入る」と返って来たから、驚いたのなんの‥‥。「末上」とは真っ先きに とか、誰よりも早くいの一番にという意味である。「老僧、末上に入る」とは「 儂は誰よりも早く、真っ先きに入る」ということである。崔郎中、案に反したこ の返答を聞いてびっくり仰天、「既に是れ大善知識、なんとしてか地獄に入る」 と思わず反問した。地獄に入るのは悪業の報いだという考えに立てば、これは当 然の疑問であるが、諸士は下読みの時、ここを読んだか? 趙州ほどの大和尚が 「儂が、真っ先に入る」と言ったのは、どういう肚からであろうか。これが本則 の眼目であるが、そこをどう読んでこの講座に列したか?
およそ大乗の菩薩の誓願は、一つは自己の人格を完成し自らの幸福を求める こと、他の一つは世の為め人の為めに働き、衆生の済度に当たることで、自利・ 利他円満こそはお互いの修行の目標である。ところで、その衆生の住んでおる現 実の世界、いわゆる娑婆世界の実情はどうじゃ。お互いに貪りあって争いあい、 だましあい、人の道に反したことをやって平然とし、喧嘩して刃傷しあい、殺し あっている、まさに貪瞋痴の三毒の一斉に燃えさかる、文字通りの地獄の世界で ある。この地獄の海に溺れかけている衆生を救うには、自分が安全な場所に居て 、ただ「こっちへ来い」と叫んでいたのでは駄目じゃ。こちらから、いわゆる【 和泥合水】で、その地獄の世界へ身を挺してとびこんで行かねば、到底救えるも のではない。趙州が崔郎中の問いに対して、「老僧、末上に入る」と言ったのは 、まさにこの肚からである。そして崔郎中の再度の問いに対し「老僧、若し入ら ずんば、爭でか郎中に見ゆることを得んや」「若し儂が地獄に入って行かなけれ ば、崔郎中よ、あんたのような迷える衆生にあうことは出来ないじゃないか」と いったのは、その肚をやや諧謔的というか皮肉まじりに表現したのである。その 後に括弧して「阿誰か、汝を教化せん」と補っておいたが、これは「儂が地獄に 入って行かなければ、誰がいったいお主のような迷える衆生を教化するというの か」ということで、これで趙州の肚が一段とよく分ったろう。

なお、大善知識ではないお互いとても、いやしくも大乗禅の禅者たる者は、 自分の境涯相応に衆生済度に乗り出し、時と場合とによっては地獄へも身を挺し て入って行かねばならない。しかし衆生済度に当ろうという熱意はよいが、【非 力の菩薩、人を救わんとして溺る】では困る。自己の力を十分に養っておかねば ならぬ。とりわけ、ミイラ取りがミイラになったのでは元も子もない。【色境に 入って色惑を蒙らず、声境に入って声惑を蒙らず】というように、自己を鍛練し ておかないと、色惑・声惑・香惑の渦まく地獄に入ったとて衆生が救えるもので はない。ミイラ取りがミイラになってしまうのが落ちである。餓鬼・修羅・畜生 の世界、それらを合せた地獄に入ろうと、あたかも【火裏の蓮花】のように色香 うたた鮮やかになるように、自己をしっかりと鍛練しておくことだ。そして、そ の自己を鍛練し実力をつける場、それがこの摂心会である。それも残り一日、し っかり骨折れ。

(30)僧 趙州に問う、初生 の孩子、還って六識を具するや、也た無しや ? 州云く、急水上に毬 子を打す。僧 復た投子に問う、急水上に毬子を打す の意旨如何? 投子云く、念々不停流。

この則は『碧巌録』の第80則に採られており、既に2回も講じており、わが 教団でも『瓦筌集』の第148則に『孩子六識』の名で収められ、重要な公案の 一つとして扱われている。そのようなわけであるから、ザーッと講ずるに止めて おこう。先ず文字の意味から説いておこう。この僧の問うた「初生の孩子」とは 、生れたばかりの赤ん坊のことである。「六識」を説くには、面倒だが大乗仏教 の認識論を一通り説かねばなるまい。われわれ人間には、外界の刺激を受ける機 関として眼耳鼻舌身意が有り、これを六根といい、六根に対してそれぞれ色声香 味触法が有り、これを六境ということは、『般若心経』を講じた時に、既に触れ ておいた通りじゃ。しかし、この六根と六境だけでは認識は完成しない。この二 つに加え、これは赤い、これは白い、これは美しい、これは醜いと分別し判断す る働き、即ち眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識が統合して、はじめて 事物の認識が成立するというのが、仏教の認識論の骨子である。
ところで、この僧、趙州に向っての問いは、表面上は「生まれたての赤ん坊 に眼や耳などの有ることは見れば分ります。又、色声香味触法などの六境のある ことも、今更疑問の余地は有りません。しかし赤ん坊には、それらの感覚をまと めて分別し、更に判断する能力、いわゆる六識が有るでしょうか」と問うたもの であるが、この問いは無論そのような幼年心理学上の問題を問うているのではな い。では、それはこれに託して何を問うているのであろうか。

およそ禅の修行は、毎度申す通り、迷いを転じて悟りを開き、更に悟後の修行 を積んで悟りを深め高めて行くが、しかし最後にはその悟りをも忘れた迷悟両忘 ・悟了同未悟の境涯に到ることを目標とするものである。そしてこの悟りに悟り ぬいて到達した、【愚の如く、魯の如き境涯】いわゆる大愚の境涯を、その天真 爛漫さ・無邪気さに着目して【初生の孩子の境涯】とか【た(口+多)々わ(口 +和)々】の境涯ともいうのである。それは別に、『証道歌』にいう【絶学無為 の閑道人】の境涯といってもよい。従って「初生の孩子、還って六識を具するや 、也た無しや」というこの問いは、実は
迷悟両忘の大愚の境涯、愚の如く魯の如き大愚の境涯に達した人物、まことに 赤ん坊のように無邪気で天真爛漫であり、時にはすっかり呆けたようにも見える あの布袋和尚に、いったい六識が有るのか、どうか?

という問いなのである。こう問われて趙州は何と答えたか。直接に有るだの無 いだのと答えず、「急水上に毬子を打す」と答えたが、これはどういう消息を語 っているのであろうか。
ここにいう「急水」とは、しぶきを揚げて流れる浅い激流のことではない。私 の郷里の最上川や、この道場の近くを流れる石狩川のように、底が深いので一見 流れていないように見えて、しかも死水ではなく、逆にスーッと音もなく流れて いる急流のことである。又、「毬子を打す」とは手毬をつくことではなく、手毬 をその急流に投げこむことである。流れない死水に投げこめば、手毬はいつまで も水面上に浮いているが、流れないように見えてしかも速いスピードで流れてい る急水に投げこめば、その毬は一瞬にして流れに呑まれて影を没してしまう。迷 悟両忘の大愚の境涯の人というものは、愚の如く魯の如くで痴呆の人にも似て、 いわば死水のように見えるが、実際はあたかもこの急水の如きもので正念がいき いきと相続しており、はたから雑念の毬子が投げこまれても、それをすぐ正念化 してしまう。「初生の孩子」にもたとえるべき無心、無邪気の境涯の人、たとえ ば布袋さんは、立派に六識を具し、美しいものは美しい、甘いものは甘いと正受 しながら、しかもそれに些しも執着することはなく、それを正念化してしまう、 ということを、趙州は「急水上に毬子を打す」と比喩的に表現したのである。世 間には【絶学無為の閑道人】などというと、すっかり枯れきって六識も無くなっ た痴呆の人と思う人もあるらしいが、それはとんでもない誤解である。迷悟両忘 の境涯を、もしそのように理解していたとしたら、この「急水上に毬子を打す」 の一句で、是非その誤まりを正してもらいたいものである。

ところで、問話の坊さん、趙州の折角の親切なこの語の真意が分らなかった 。そこで趙州の親しい友人、文字通りの知己であった投子大同和尚を訪ねた折り に、趙州との問答の経緯を語り、「〈急水上に毬子を打す〉と趙州和尚が応じら れたが、それはどういう意旨でござりましょうか、何卒それを解説して下され」 と投子に頼んだ。そしたら投子和尚、ただ一言「念々不停流――念々、停らず流 れる」と答えられた。だが、この「念々不停流」とはどういうことであり、どこ で「六識を具するや、也た無しや」に答えているのであろうか。ここまで言えば 、お主らにもほぼ見当がつくであろう。「初生の孩子」の境涯まですりあ げた 人と雖も、それは木仏でも金仏でもない、生きた人間であり、心は絶えずいきい きと流れ、六識は流れて停らずである。死物ではないから念々流れて停まること はないが、その念々は皆正念であるということ、【念々正念・歩々如是】であり 、【清流間断無し】というように、正念が一貫相続して不断にいきいきと流れて いるということである。臨済義玄禅師は【心々不異なる、これを活祖と名づく】 と言っておられるが、「急水上に毬子を打し」「念々不停流」なる「初生の孩子 」の境涯の人は、まさにその「活祖」にほかならないのである。人間と生まれた 生き甲斐に、ぜひそこまで到達したい、一歩でも半歩でも近づきたいものである 。 『趙州録』には他にもまだ講じたいものがあるが、この辺で一旦、打ちきっ て先きを急ぐことにしよう。


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